欧文作品名読み者原作備考年掲載誌:

NAKAYAMA Atsuo

エンタメ社会学者

事業家(エンタメ専業の経営コンサルRe entertainment創業)やベンチャー企業役員(Plott、ファンダム)をしながら、研究者(早稲田博士・慶應・立命館大研究員)、政策アドバイザー(経産省コンテンツIPプロジェクト主査、内閣府知財戦略委員)などを兼任し、コンテンツの海外展開をライフワークとする。以前はリクルート・DeNA・デロイトを経て、バンダイナムコスタジオ・ブシロードで、カナダ・シンガポールでメディアミックスIPプロジェクトを推進&アニメ・ゲーム・スポーツの海外展開を担当。著書に『クリエイターワンダーランド』『エンタメビジネス全史』『エンタの巨匠』『推しエコノミー』『オタク経済圏創世記』など

レビューの一覧

Dr.スランプ

1976年集英社に入社した鳥嶋和彦が1978年に原稿を持ち込んだ元イラストレーターの鳥山明と出会い、3年の共同作業と500ページのボツ原稿の末に生まれたマンガが1980年に始まる『Dr.スランプ』である。本作は「5年目のマンガ嫌いの新人編集者とデビュー後3年目で初連載、マンガを描いたことのない漫画家の作品」という意味で異例中の異例であり、それでありながら1981年末の第6巻は「初版220万部」と当時ジャンプ歴代の新記録を樹立する(『キン肉マン』の1979年160万部を破った)。 とにかく「異色」だった。ロボット、しかも女の子が主人公。ヒーローものと思いきや、ギャグでポンコツな登場人物も多い。バトルは強いが、別に勝つことが目的でもない。かといってギャグ路線にしては丁寧に描かれた絵と、登場するマシンも世界設定もとにかく書き込まれている。マンガがどの方向に向かうかを模索していた時代に、「とにかくオシャレでクールな、若者文化を代表するマンガ」として新しい目線を獲得していった本作は1980年代の急激に多様化し、マンガが文化の旗手となっていく黎明を開いた。 各産業にとって「当たり前」を常に壊していくのはよそ者、若者、バカ者の特権である。ジャンプを「天下のジャンプ」視しなかった2人だからこそ、できた。鳥嶋氏はのちにこう語る。「「アニメにするとキャラクターがすり減る」って編集部の人間が平気でいってましたからね。ジャンプの300万部だって視聴率にすると3%ですよ。それより『Dr.スランプ』はアニメだと視聴率36%で10倍以上の人が見ているわけです。本当に人間を広げているのはどっちなんだという話ですよ。だから僕はアニメに積極的に関わっていきました」(『エンタの巨匠』2023) 驚きはこんな大人気作をたった5年で惜しげもなく連載終了とし、その後マンガ史を変える『ドラゴンボール』を開始したことだ。マンガ・アニメ・ゲーム・玩具すべてでDr.スランプの世界を味わい、推したのだ。

はだしのゲン

『はだしのゲン』は意外にも1973年「週間少年ジャンプ」の連載作品だ。もともと原爆被爆者として差別を避けるべく広島や原爆と無縁のマンガばかり描いていた中沢啓治氏が放射線のために母の骨が灰となってひとかけらも残らなかったことをきっかけに自伝を遺すことを決意。その33歳になってからの遅咲きの自伝的作品「おれは見た」が今の「はだしのゲン」であり、ギャグ・ラブコメ志向が強まる1970年代半ばの少年誌では当然ながらアンケート人気も低迷。編集長長野規の思い一つで限界まで連載された。 その内容の衝撃さは誰も忘れられないだろう。私も小学生のときに皮膚がただれる恐怖と、目の前で父姉弟が焼死する衝撃のシーンはトラウマである。ダンテ『神曲』にもみるように人は地獄を可視化することによってはじめて倫理を実感し、社会的秩序を志向する。私も『はだしのゲン』をみたことで原爆や戦争のリアリティを追体験し、それらが近寄りがたく軽口で批評するたぐいのものではないという「原体験」となっている。 集英社をして「単行本になると社名に傷がつく」と言わしめるほど物議をかもした本作が、日本共産党系出版社で再び連載が続き、汐文社で出版までもっていったことをもって、日本の出版産業がいかにその分散的な産業構造によって文化をつくりえたのかを実感する。これはマンガの域をこえた文学であり、「残すべきものである」と今やだれもが思うものだが、1970年代においてすらそう思われていなかった、ということを我々は胸に刻んでおくべきだろう。本作があるのとないのではマンガというメディアの「重み」が全く違っていたことだろう。

子連れ狼

双葉社「漫画アクション」で1970~76年に連載された同作は、私が初めて「原作者付き作品」として読んだマンガだ。小池一夫という「原作者」は当時顔すら知らない中で、実はマンガ家育成塾「劇画村塾」を開催し、その後のマンガ以外の業界も含めたキャラクター・世界観づくりの秀逸なストーリーテラーを多く育てた偉人としても名を残している。『うる星やつら』の高橋留美子、『桃太郎電鉄』のゲームライターさくまあきら、『ドラゴンクエスト』の堀井雄二、『吸血鬼ハンターD』のSF作家菊地秀行、『バキ』板垣恵介、『北斗の拳』原哲夫、『レッド』の山本直樹、『特攻の拓』の佐木飛朗斗、驚くべきことにこれらすべて門下生である。 本作は江戸幕府の公儀介錯人であった主人公が、柳生烈堂に生まれたばかりの子を遺した妻も含め一族皆殺しにされた恨みをはらすため、その我が子をあやしながら暗殺稼業で日本を行脚する話だ。目の前で次々と襲いかかる敵、惨殺を厭わない主人公、そのなかでキャッキャと赤子が遊びまわり、ときには父の手助けをするその「異質感」が本作の衝撃な第一印象であり、その“濃すぎる”劇画タッチに1980年代に幼少期だった自分は一口には受けつけづらかった。だが本作のポテンシャルを私自身が再発見するのは、『Lone Wolf and Cub』として1987年の英語版が日本マンガとして米国で人気を博した第一世代の作品となったこと(大ファンだったマーベル・コミックのフランク・ミラーが無料でいいから表紙絵をかかせてくれと願い出たと言われる)、そして2017年ごろにハリウッド映画のリメイクが画策されたことをもって、である。 強烈なまでに「キャラクターをたてること」にこだわり、それを実践した「子連れ狼」はマンガが「劇画」として新たな映画的手法でジャンルをたてていく黎明を開いた。これ以降、マンガは大人の読了にたえる深い主題やキャラクターを産むメディアになっていく。

アシュラ

餓死寸前の少年は、平然と人を殺し生きるためだけに人肉を食い続けた…。主人公の「グギャア」という叫び声、醜い容姿で人を傷つけ、生まれてこなければといいながら生への執着を捨てきれない。この究極のマンガでに小学生の自分は震撼したのを強く覚えている。 1970年に連載開始後に『週刊少年マガジン』で連載された同作は「人肉を食べ、我が子も食べようとする母親」というとんでもないものを描き、神奈川県で有害図書指定、社会問題に発展。それでも当時社長の野間省一は自らの責任において連載を断行している。凄いのは本作が2012年になってアニメ化しているという点だろう(『銭ゲバ』は2009年にドラマ化)。キャッチコピーは「眼を、そむけるな」。この事実だけでも、保守的と言われる日本の出版・映像業界がいかに「冒険をしてきたか」という証明にもなる。 人はいかなる状況において親であることをやめ、獣となるのか。そして獣に育てられた者は、どうやって人性を取り戻すことができるのか。ジョージ秋山はギャグマンガ家としてデビューしておきながら、『銭ゲバ』と『アシュラ』という2つの問題作を発表し、人間の善悪やモラルを問おうとした。単なる嗜虐趣味ではない。食人は遭難・飢饉など社会から孤絶した際に究極の選択で、スペイン画家のゴヤが1820年前後にローマ神話から描いた「我が子を食らうサトゥルヌス」などでも取り上げられる、人類の避けがたい暗黒面だ、生半可な遊び心でできることではない。秋山ジョージの評判は大いに傷がつき1971年に一時引退、日本一周の放浪の旅に出ている。 1970年代は公害問題とオイルショックで「科学の時代」を見直そうと顧みられた時代でもある。当時の出版界が、マンガそのものが有害図書とされていた時代でも(『鉄腕アトム』すら焚書されていた1950年代!)歩みを止めず、こうした作品を出版し続けた「覚悟をみせた」意味でも象徴的な作品である。国によっては死刑すらありえる出版テーマを許容した当時の日本の出版界の受容性にリスペクトがとまらない。現在連載中の『ドラマクイン』(市川苦楽・著)にも同作と近い“異常性”を感じている。

ドラえもん

ザ・国民アニメとなった『ドラえもん』は、藤子・F・不二雄氏が「ずっと子供の心を失わなかった」天才から生まれている。1933年生まれのF氏は17歳でA氏とコンビを組み、1951年には漫画家デビューを果たした早熟のマンガ家で『ドラえもん』連載開始時1969年はすでにデビュー18年、36歳になっていた。F氏の短編集をみればいかにそのストーリーテラーとしての才能が傑出し、複雑な哲学や歴史の深い大人の世界を描くことに長けていたかを実感できるが、そうした武器をすべて封印し、あえて幼稚園から小学校1~6年、中学校まで1学年ごとに分かるようにドラえもんを描き分けていたことにその凄みを感じる(当初ドラえもんは1977年創刊『コロコロ』ではなく、1969年から学年誌ごとに連載、1年たったころにドラえもんが未来に帰るという“卒業”も含めた1年サイクルの子供向け短編マンガ集だった)。 まるで漫画界の池上彰だ。自分自身が知って広げることは意外に簡単で、知ってしまったあとにいかにそれを知らない後塵が分かりやすく辿れる道を作るかということは困難を極める。モチベーションとしても。それを30代、40代、50代としてのマンガ家、ストーリーテラーとしての円熟期に、人生を費やし、最後まで書き続けたF氏は、日常生活が破綻した“天才漫画家たち”と一線を画し、よき父であり、家族と長い時間も過ごしていたことが藤子・F・不二雄ミュージアムを通じても実感できる。子供の目線に立ち戻ることを、ずっと繰り返し続けていた人なんだろうと思う。柔軟さを失えば、あれだけの“発明品”を量産することなどできないだろう。