欧文作品名読み者原作備考年掲載誌:

ANDO Takafumi

編集者/境界文化研究者/ドラマトゥルク。女子美術大学講師(構想と倫理)。TISSUE Inc. 代表

出版社勤務ののち独立。「移動と境界から表現と社会を考える」を旨として主に出版・美術・公共企画といった領域を中心に企画や制作、リサーチ、クリエイティブディレクションなどを行う。
出版に関しては自社にて美術書レーベル「TISSUE PAPERS」を主宰し、アートブックの出版や国内外での展示企画を行う。2025年からは翻訳書や国内作家の書き下ろしなど、文字の本も刊行予定。

レビューの一覧

童夢

圧倒的な画力と描き込みの細密さは言うまでもないが、改めて読むと、極めて1980年代初頭という時代を描き込んだ作品であるということに気づく。 自殺の名所化する巨大団地、受験戦争で精神のバランスを崩した浪人生、地縁血縁から切り離されて集住する核家族家庭。独居老人、ガス爆発、立てこもり。相互無関心と、日常に変調を持ち込む大事件への暗い歓喜。あらゆる熱が去り、その後に残った矛盾や不合理を整然とした近代建築や制度に閉じ込めて不可視とした時代の風景——のちに「終わりなき日常」と言われたような——が、「子ども」たちによってかき乱され、切り裂かれ、爆発炎上する。退屈を紛らわすかのように人を殺めていく「子ども」もいれば、それを止めようとする「子ども」もいる。だが、その力と力がぶつかったとき、後者もまた巨大な破壊者になるのだ。 平板な風景に慣れきってしまった大人たちには感知できない次元で繰り広げられる、その後の『AKIRA』にも通じるような超能力バトルは、実にハルマゲドン的である。2025年にこれを見ている私たちは、本作に登場する悦子の年頃の「子ども」たちがそののち1990年代に起こしたことを、すでに知っている。だが、この頃の大友克洋がそれを知るわけではない。優れた表現者はいつでも時代の空気を先んじて感得し、鐘を鳴らすのだと感じさせられる。

子連れ狼

幼少期、父の書棚から盗み見た、おそらく人生初の劇画体験だったと思う。復讐、陰謀、肉欲、孤独、そして画の情報量。むせ返るようなリアリズム。今から見れば時代考証も含めて突飛な部分も多く、十分に「マンガ」的ではあるが、80年代後半に自分が読んでいたマンガとは全く異質な「大人の世界」を垣間見た。その劇画は60年代に若者たちの表現として始まり、それまでの漫画に飽き足らず社会や時代を描いた重厚な作品が受けたが、1970年代に入ると学生運動の退潮とともに劇画ブームも終焉を迎え、「暑苦しい」と敬遠されるようになっていったという。 本作はそんな時代の入り口である70年に連載がスタートしたというから、一族や好敵手たちが次々に滅びゆくなか復讐だけを心中に歩み続ける拝一刀と大五郎の親子、そしてその「暑苦しい」絵柄は、そのまま時代に取り残されゆく劇画、そして時流にうまく乗れなかった人々の表象に思える。左翼学生は転向して大企業に入り、生産から消費へと時代の主役が移り、「シラケ」が世の中を覆っていく中で、ある種の熱を未だ抱え持ったままの人々。右肩上がりの資本主義社会で「うまくやる」ことのできない空虚や孤立を感じながら生きる人々。空前のヒットとなった本作において、拝一刀親子が歩む、仇討ちというどこまでも無明の旅路に集ったのは、そんな無数の孤独者だったのではないか。田舎の惣領息子として、己のすべてを「家を守る」ことの中に封じてきたであろう父の、もしかしたら抱えたかもしれないやるせなさも、今にして思う。

三丁目の夕日

西岸良平作品全般に通じることではあるが、あらゆるところに濃厚な「死」が漂っている。一話完結形式の作品であり、話ごとの収まりとしては心温まる読後感を覚えるものが多いが、親しみやすいキャラクター造形や人情話に隠れて、時には明示されながら、レギュラーメンバーを含めた登場人物の多くが死や喪失、あるいはままならない現実を抱きながら生きている。 南方で戦友を亡くした男、婚約者が戦場で生死不明となり今の夫に嫁いだ女、夫を漁で亡くし自らも病に倒れたため息子を妹の子として託した母親、ストリッパーの母親が逮捕されそのまま蒸発した子ども、生活苦により娘を孤児院に捨てた女……本作の舞台は昭和30年代、すなわち戦後10年かそこらしか経っていない時代である。死と病と貧しさは、常に生活のすぐ隣にあった。経済白書が「もはや戦後ではない」(1956)とぶち上げる一方で、人々の心の中で「戦争」は決して終わっていなかった。塞がりかけたかさぶたの下で確かに疼いていた、年表には決して残らないそれぞれの傷。その痛みを知る世代が去りゆく21世紀、「昭和」から痛みの記憶を漂白して人情とノスタルジーで塗りつぶし、都合よく利用可能な断片情報に変換しようとする力学も強くはたらく中で、決して記号化され得ない個々の生を生きた人々の息遣いに、どのように耳を傾けていくかが問われている。

蔵六の奇病

小さい頃から「頭が弱い」として村じゅうから馬鹿にされる百姓・蔵六が全身から膿が噴き出る病にかかり、人里離れたあばら家に住まわされる物語。おそらく時代は中世だろうが、当時の村落共同体は農作業に従事できない、また共同作業に若者や子どもといった労働力を提供できないものが露骨に排斥される場であった。蔵六に浴びせられる「働かないで絵ばかり描いていたばちだ」という声は、ハンセン病が「天刑病」と言われ差別されていたことも想起させる。蔵六の時代をとっくに過ぎても、精神障害者やハンセン病患者はつい最近まで法によって社会から排斥されていた。患者を自宅に監禁させ家族に監視させる精神病者監護法は1950年まで、ハンセン病患者への差別的措置を盛り込んだらい予防法は1996年まで生きていた。 「頭が弱い」蔵六は村落共同体から排斥される存在である一方で、絵を描くこころ、色彩を欲するこころを通じて、此岸と彼岸が、人と自然が、「価値がある」人間と「そうでない」とされる人間が、分化してしまう前の世界と交信する回路を持ち得た存在であったようにも感じられる。蔵六とは四本の足と頭・尾の六つを甲羅に収めることから亀の異名とされる。現世にあって彼岸に足を半歩踏み入れた(あるいは追いやられた)ものたちが魂の世界に収め持った自分だけの美しさを、機能や立場や役割に分化され馴致されきった村人たちは、そしてその果てにいる私たちは、見ることができない。膿とウジと体液に塗れながら色彩の世界に生きる男の姿が怪奇と叙情の奇才・日野日出志の手によって質感までもがあまりにも気色悪く、そして美しく描かれる一方で、終盤で蔵六を殺しにくる村人たちのかぶった鬼の面を無機的かつクリーンに描く画力も凄まじい。人であることをやめたのは、果たしてどちらなのか。そのクリーンさの果ての社会に、私たちは生きている。

カムイ伝

作品の最序盤で村の小頭を襲った弟カムイが仲間である非人たちに捕えられあっけなく殺されたあと、唐突に出現して出現し、何事もなかったように主人公として取って代わる双子の兄・カムイは、それまでどこにいたのだろうか。これは決して、強引な展開への単なるツッコミではない。 中世まで双子(およびそれ以上の多産)は「畜生腹」と言って忌むべきものとされ、選ばれなかった子は間引かれたり捨てられたり、よそにやられるなどした。多子を養う余裕のなかった村落共同体社会の貧しさゆえとも言える。江戸時代中期以降は多産を祝う地域も出てきたが、従来通り忌み嫌われる地域の方が多かった。兄カムイもまた一度どこかに捨てられたのか、それとも弟のほうが最初から「忌み子」の表象として存在していたのか。 江戸時代の身分制度を下敷きにしつつ、武士、百姓、非人という各階層においてその集団の論理から外れたアウトサイダーにならざるを得なかった龍之進、正助、カムイという、いわば「忌み子」たちの物語と言える本作は、イエの存続を至上目的とする家父長制、その先の富国強兵と高度成長の陰で生まれた近現代の「忌み子」たちを見つめながら描かれた。そして、彼らを忘れ果ててきた私たちの歴史を、今なお照射している。