小沢 高広(うめ)Ozawa Takahiro(Ume)
漫画家
二人組漫画家”うめ”のシナリオ演出担当。
代表作は、ゲーム業界を描いた『東京トイボックス』シリーズ。他に沖縄の離島で都会出身の子がiPhone片手にサバイバルする『南国トムソーヤ』、1970年代シリコンバレーの群雄割拠を描く『スティーブズ』(原作:松永肇一)、育児ハックエッセイ『ニブンノイクジ』など。現在は、日本の第一次南極観測隊 × 獣人をテーマにしたヒストリカルSF『南緯六〇度線の約束』を小学館ビッコミにて連載中。また小沢は『劇場版マジンガーZ / Infinity』『LAZARUS ラザロ』(渡辺信一郎監督)などアニメ等の脚本もつとめる。
レビューの一覧
漫画家なんて仕事をしているくせに、デビューして数年ものあいだ、BLという言葉はおろか、概念すら知らなかった。“やおい”という単語をなんとなく耳にしたことがあるくらい。まわりの女友達、とくに相方の妹尾なんかは「こいつに話したら、捨てられるかもしれない」と思っていたらしく(←酷い偏見だ!)、頑なに黙っていたらしい。そんな僕が『風と木の詩』を知ったのは、「ユリイカ2007年12月臨時増刊号 総特集=BLスタディーズ」だった。そのころはさすがに、どうもそういうジャンルがあるらしい、とうっすらは知っていたけれど、周りはあまり教えてくれない。なのでそのユリイカを、ラインマーカーでテキストを追いながらBLを文字どおり“勉強”した。そのなかで“始祖”として繰り返し登場したのが、この作品だった。もちろん妹尾は持っていた。
ゼロ年代に読んだので、連載当時のセンセーショナルさは体感できない。けれどその分、現代のBL作品はもちろん、僕が普段触れてきた数多くの創作物にも散りばめられている要素が、この一作の中に凝縮されていると気づいた。まるで生物学の系統樹を一気に遡るように「あれもこれも、ここが源流か!」と興奮したのを覚えている。また印象的だったのは、絵の繊細さとは裏腹の強烈な暴力性。いや、あの繊細な筆致だからこそ、より鋭く突き刺さってくると言うべきか。高級工芸品の店内を大きな荷物を抱えて歩くような緊張感を覚えながら読み進め、後半はずっと「セルジュ、壊れないで」と祈るようにページをめくっていた。
“ジャンルを作る”力というのは、単なる創造を超えて破壊にも似たインパクトを伴うのだろう。BLの歴史をここから生み出したという事実に、深く納得する。少女漫画だけでなく、漫画という表現のあり方そのものも、ここから一変したんじゃないか。そう強く感じさせられる。同業者として、この道を切り拓いた竹宮先生には敬意しかない。
デビューしてしばらくした頃、自分の土台の弱さがどうにも気になり始めた。ストーリーの作り方や絵の描き方を解説した本はいくらでもあるのに、「漫画そのものの描き方」についてピンとくる指南書はなかなか見つからなかった。そんなとき出会ったのが、『龍神沼』が掲載されている『マンガ家入門』だった。
この本の中に収録されている『龍神沼』と、その詳細な解説を読んで衝撃を受けた。「こんなに理詰めで漫画って描いていいんだ!」という実感が、一気に目の前を開いてくれた気がする。それまではどこかで「漫画は、天才が脳内のブラックボックスからひねり出すもの」と思い込んでいたし、僕自身も毎回ガチャを回すような感じで原稿を仕上げていた。麻雀でいえば、配牌の瞬間にあがっている「天和」しか役を知らずに麻雀をやっていたようなものである。
けれど『龍神沼』を題材にした石ノ森先生の解説を読むと、ページ割りからキャラクターの配置、効果線の引き方にいたるまで、「こうすれば読者にこの感情を与えられる」という理屈がしっかり書かれていた。これって今風に言えば「言語化」だ。感性やカンに頼るだけじゃない、再現可能なプロセスで漫画の魅力を生み出す。その考え方が個人的にはすごく性に合った。
もしこの理詰めの漫画づくりに触れられなかったら、僕はとっくに挫折して漫画家をやめていたかもしれない。天才のひらめきを待たずとも、手順を踏んで描けば作品を構築していけるんだと知れたことは、まさに救いだった。『龍神沼』の「見せ方」を徹底的に分析する解説があったからこそ、忘れられない作品、恩義すら感じている作品だ。今でも「どう演出すれば効果的か?」と思い悩んだときは、『龍神沼』を思い出す。
デビューの勢いだけで走り続けていた自分を、しっかりと基礎固めへと導いてくれた作品(と解説)。これがなかったら、今の僕はいないんじゃないかと思う。
予備校の先生に「これと『あさきゆめみし』は読んでおけ」とすすめられたのがきっかけだ。正直、聖徳太子といえば子どもの頃に見た一万円札の肖像、あるいは歴史教科書の中の偉人ぐらいの認識。まさか漫画でこんなにも魅力的に再構築されるなんて思ってもみなかった。
いたるところに好きな場面しかないけれど、今ふと思い出したのは、皇子が崇峻天皇に呼び出されるシーン。長雨を降らせた“責任”を取れと言われてるのに、皇子はなかなか行こうとしない。ようやく行ったタイミングで雨がパタッと止んでしまい、天皇サイドは何も言えなくなってしまう。でもあとになって、それは皇子が空の様子を見て「もうそろそろ止むだろう」と理詰めで読んでいたというリアリティ! 神秘と現実を絶妙にミックスしたこの“手口”に、痺れる。
サブキャラで好きな人もたくさんいるけれど、今になると蘇我馬子。一見「ガハハ」なおじさんっぽいんだけど、政争の嵐をしたたかに渡り歩くバイタリティがかっこいい。皇子ともお互いに利用してやろうというある種の歪んだ信頼関係があるのがたまらない。こういう脇役が厚みを持って動いているおかげで、厩戸皇子の神がかったオーラがいっそう際立つ。
あとは毛人との“イチャイチャ”が挟まれると、今でいうところの“尊さ”全開でかわいすぎる。厩戸皇子と蘇我毛人の距離感にドキドキさせられる少女マンガってどういうこと? と当時は衝撃を受けたけれど、今になっていれば王道ですね。
今はだいたい十年に一度、記憶がほんのり薄れた頃合いに再読しては、「やっぱりこの漫画は史実でしかない!」と頑なに信じ込むくらいには大事にしている。山岸凉子が作り上げる飛鳥時代の息遣いは、創作というよりも、当時を「見てきた」感覚がある。何を言われようと、これは僕にとって立派な“史実”そのものだ。
『AKIRA』の続刊を待ちくたびれていた頃、書店の棚で見かけたのが出会いだ。
正直最初は「『AKIRA』と比べると地味だな」という印象だった。けれど、団地というごく普通の生活空間にこっそり仕込まれた超能力という非日常は、性癖といっていいほど、魅力的で、読むほどに“静かなSF”の底知れない迫力に引き込まれた。
とくに印象的だったのは、いわゆる“壁ドン”のシーン。3331で開催された大友克洋展でも再現されていたあの場面は、超能力を“球体”として描く表現が視覚的にすごく鮮烈だったと思う。それまでにも超能力者が壁を吹っ飛ばす描写はあったけれど、見えない力の形を“丸み”だけで表現する手法は初めて見た気がした。その壁の凹みを見ただけで、こちらも一瞬にして異常事態を理解するから、まさに漫画ならではの衝撃だった。
もうひとつ面白かったのは、社会的には弾かれた弱い立場の人たちが、事件の中心に配置されているところ。刑事をはじめとした“公的な大人”は、ほとんど何が起きているか理解できていない。それが大友克洋らしい社会批評の匂いを帯びていて、「こういう視点で世界を描くのか」と感心した覚えがある。
そして何よりも魅力なのが“団地”の描写。今では団地がエンタメの舞台になることも珍しくないけれど、『童夢』が初出のインパクトは絶大だった。僕の相方の妹尾はずっと団地生まれ団地育ち。ずっと団地を嫌っていたそうだけれど、この作品を読んで「団地がかっこよく思えるようになった」そうである。
ホラーというより、日常が地続きで歪む感覚の面白さ。大げさに怖がらせるわけではないのに、普段の風景が別物に見えてくるあの感覚は、今でいうARグラス越しに世界を見たときのような新鮮さだったと思う。『AKIRA』のようなド派手な超能力戦に比べれば絵としては地味だけれど、そういう静かなSF要素こそが『童夢』最大の魅力だ。
『エリア88』を初めて知ったのは、実はアーケードゲームからだ。ゲーセンの筐体でシンやミッキー、グレッグの名前を目にしながら、戦闘機を操るシューティングでプレイしていただけで、当時は「マンガの原作があるらしい」くらいの認識。ところが二十歳を過ぎて、愛蔵版を読んでみたら、もうその圧倒的な“熱”に撃ち抜かれた。あの筐体で動かしてたキャラたちが、こんな泥臭くて深いドラマを背負っていたのかと、ページをめくる手が止まらなかった。
もちろん空戦描写にもゾクゾクしたけれど、いちばん好きなのはジョゼとのある朝の会話。子供だからこそ、シンに真っ向から「敵を落とすとき、どんな気持ちになるの?」なんて無邪気に聞いちゃう。そのあとジョゼが焦って謝ろうとするのを、シンが真っ向から受け止めて“殺しの快感”と“生き延びる安心感”について静かに語る。あのころ、2025年にこんな物騒な戦争がたくさん起きているとは思っていなかったけれど、おかげで戦地を思う気持ちの解像度が少し上がっている。
あと外せないのがマッコイの存在感! ゲームでも散々追加兵装を売ってもらった(笑)。 本編でも抜け目ないジジイ感がたまらなく好き。戦場の絶望感をほんの少し和らげつつも、ちゃっかり自分の利益を追い求めるあのバランス感覚こそ、リアルな人間くささなんだと思う。シンやミッキーのギリギリの日常を裏で支えているのは、ああいう“食えないオヤジ”だったりする。
実は今、自分の作品『南緯六〇度線の約束』で戦闘シーンを描いてる最中で、緊張感とどこか狂気じみた空気を出したくて、ついつい『エリア88』の名場面を思い出す。兵器自体の描写ももちろんだけれど、本当に痺れるのは人間そのものが丸裸にされていく瞬間。ゲーセンという戦場で始まった僕の『エリア88』体験は、今では確実に僕の創作の血肉になっている。“人間の戦いのキワ”を描く教科書みたいな作品だと思う。