欧文作品名読み者原作備考年掲載誌:

KISHIDA Taka

天使画家・ーコマ漫画家.

絵画展入賞・個展多数。本の表紙・フライヤー・ポスター等も手掛ける。
著書に『日々は過ぎてーDays went by』『Kissy’s portraits52人による”岸田尚”肖像画競作集(編集)』など。
現在『岸田尚ーコマ漫画』をトーキング・ヘッズ叢書(アトリエサード刊)にて連載中。
宝塚歌劇団・演出家の岸田辰禰、宝塚歌劇団・娘役の浦野まつほ、ジャーナリストの岸田吟香、画家の岸田劉生を親族に持つ。

レビューの一覧

名たんていカゲマン

主人公の少年探偵カゲマン(本名は影万太郎)が自分の影から現れるシャドーマンと共に、ライバルで変装の名人でもある怪人19面相や悪者が引き起こす事件を解決していくギャグ漫画。 光ある所に影あり。光が無いと影(シャドーマン)が登場する事が出来ないと言う設定には哲学を感じたが、そこはギャグ漫画!懐中電灯で照らすと現れたり、しかし電池切れなどでピンチになったり、それならば次の手を!と子供達をハラハラさせた。 また各話での発想が破天荒で愉快痛快、例えばお金を盗むシーンでは造幣局の建物ごと盗んだり、シャドーマンで言えば飛行機になったり、車になったり、新幹線になったり、次の展開が予想が出来ず飽きない。 こんなにも色々な展開を考えられるなぁとワクワクさせられる。そんな大胆な悪者も間抜けで憎めず、カゲマンとのやり取りにはホッコリさせられる。 ギャングが電車を乗っ取った事件では、「はじめからのっとるつもりじゃなかったのだ。いちど車しょうになりたかったのよ。」と泣く彼らを「今度だけゆるして、ゆめをかなえてやろう。」などと言って一緒に紐を使って電車ごっこをするのだ。 1970年代から80年代の時事ネタもふんだんに使われており、当時のアイドルやCMを思わせる人物や内容もたくさん登場し世相を感じさせるので時代を知る人には懐かしく、しかし絵は古さを感じさせず初めて読むと言う方にも楽しめるのではないだろうか。

蔵六の奇病

死期のせまった動物があつまる不思議な沼、だれひとり近づく者はない「ねむり沼」。この場所は生きている人間にとって異界。 その沼近くの村に住む百姓の次男坊、蔵六は仕事もせずに(出来ずに)絵ばかり描いていた。頭が弱いと言われている蔵六は、いつか好きな色とりどりの虫や小鳥や動物や赤い花や金色のミツバチなどをほんものそっくりの色で描いてみたいと願っていたが、その色がどうしたら手にはいるかは考えられなかった。 そんな蔵六の顔に七色のでき物がふきだし悪化していくと、村で「のけもの」にされたくない家族はあの沼のある森へと彼を追いやる。兄以外の父母はそんな事をしたくなかったが、農村での村八分は「死」に直結する。元々、村中からいじめられていた蔵六は、ねむり沼のほとりのあばら屋へ。優しい母だけが毎日、薬と食べ物を持って行く。 周りの人間と違う感性や姿を持つ者が、集団で差別を受ける。悪口を言われ、からかわれ、石を投げつけられる。今、こうして暮らしている世界に、そう、もしかしたら明日には自分も受けるかも知れない虐め。醜い醜い感情の連鎖と渦。 吹き出物から膿が吹き出しウジがわき、悪臭が森から村へと漂い始めると母は食料を持って行く事を禁じられる。それでも蔵六は孤独の中、生き抜いていた。涙を流し痛みに耐えながら虫を食い、森の生き物を食いながら。いつしか目玉が腐り落ち、膿で耳の穴が塞がり、無限の暗闇と静けさが彼を襲う。そんな彼を村人達は、葬る協議をし総意として森へと向かう。 その後は実際に作品を手に取って、読んで欲しい。残された七色の絵と共に、あれは何なのかを。

ベルサイユのばら

フランス・ブルボン朝後期、フランス革命前夜とその嵐吹き荒れる時代に生きたマリー・アントワネット、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンを主軸とした恋人達の物語である。 歴史上の人物と架空の人物が織りなす、少女漫画の金字塔。 煌びやかなドレス、豪奢な装飾品、壮麗な宮廷や屋敷、華やかに繰り広げられるパーティーに少女達は魅了され憧れを持って読んだ。 お洒落が大好きなマリー・アントワネットは可愛らしく、退屈と感じる毎日を着飾る事や遊びまわる事、果てには禁じられている賭け事にまで手を出し日々を過ごす。それが国の財政をひっ迫させている等と考えもせずに。宮廷での貴族の権力争い、アントワネットとフェルゼンの苦悩に満ちた恋や、男装の麗人オスカルの叶わぬ恋と本当の愛を知る場面など夢中になるエピソードがテンポ良く展開して行き、そこに実際に合った事件や世相が加味され何と深き物語であろうかと夢中になる。 さて、大人になって納税をする立場になってから読み返すと、国のトップが贅沢三昧で貧しい庶民の事をかえりみず(知らず)、重税を課して無駄遣いをしていると考えると、革命のうねりの大きさと国民の怒りが実感として身体を突き抜けた。 純粋無垢であったアントワネットや、聡明なオスカル、心を閉ざしてしまったフェルゼンのラストシーンで泣いていた少女の頃も、大人になってからも感じ方は違えど、何度も何度も読みたくなる漫画の一つである事は間違いがない。

王家の紋章

エジプトのカイロ学園高等部に留学し、考古学を学んでいたアメリカ人の美しい少女キャロル。父親率いるチームが「王家の谷」において若き王の墓所を発掘した。墓所奥の部屋に安置されていた王の姉アイシスのミイラが蘇り、弟の墓所を荒らされた怒りからリード家を恨み、キャロルを紀元前約1200年の古代エジプトへ連れ去る。 そのシチュエーションは、ミイラやピラミッドのイメージから恐ろしく怪談めいた物語を想像した。これからキャロルはどうなってしまうのか、王家の「呪い」はとけるのだろうかと。 しかし読み進めると、この作品の煌めきを纏った細密に描かれた個性的な画風と、エジプトの衣装や装飾品の美しさ、聖典から抜け出した様な詩の重なり、少年王メンフィスとの出会いから恋に落ちていく様子、様々な戦いや苦難に立ち向かう姿に、読み手として釘付けにされ物語の中に飲み込まれていった。 ただのタイムスリップ劇ではない、エジプトを中心とした歴史が壮大に編み込まれたこの作品にしかない世界観。エジプトをここまで描き込んだ少女漫画を今まで読んだ事がなく、心に刻まれた。

ねじ式

「まさかこんな所にメメクラゲがいるとは思わなかった」 左腕を押さえながら、海から岸へと向かって来る「ぼく」。たまたまこの海岸に来てメメクラゲに噛まれて静脈が切断され、真っ赤な血がとめどなくながれて「死」を感じながら不慣れな土地で医者を求めて歩きまわる。 劇画的表現、流れる様に様々な風景が目の前で転換し、物語が繰り広げられていく。漁村の人達の無関心や話の通じない様、隣町を目指す為の線路、狐面の少年が運転する機関車、風鈴の音、隣町ではなくまた元の町へ戻ってしまう車窓、目医者ばかりの通り、金太郎飴ビルと「生まれる前のおッ母さん」、女医との出会い、ねじで止められたシリツ(手術)、夢でも見ている様に不安定で退廃的な場面がグルリグルリと回りながら最後には目的が成し遂げられている。 何年も前、友人達と千葉県の太海漁港へ旅に出た。少しでもこの一コマ一コマを見出したくて町を歩いた。別件だが「やなぎ屋主人」のモデルになった長浦の「よろずや」へも行った。特にモデルになっていない街角でも偶に「つげ漫画に出て来そう」と足を止める事がある。この漫画を読んで仕舞うと、物語も風景も脳みその中に「ふぃ」と入って残るのだ。