欧文作品名読み者原作備考年掲載誌:

HAYAKAWA Ko

東京大学先端科学技術研究センター特任准教授

1981年宮城県生まれ。4歳から週刊少年ジャンプやマガジンを愛読。博士(国際政治経済学)。応用人類学の立場から、ビジネスや公共領域でフィールドワークやエスノグラフィ(分析)という文化人類学の主要な理論や方法を社会問題解決に適用する方法を構想している。著書に『まちづくりのエスノグラフィ』(春風社、2018年)や『ディープ・アクティブラーニングのはじめ方』(共著、春風社、2023年)など。また、NPO法人“矢中の杜”の守り人理事、株式会社ePARA SDGs顧問など、プロボノ活動も展開している。

 

レビューの一覧

まんが道

『まんが道』は藤子不二雄A(安孫子素雄)による作品で、彼が少年時代から漫画家として成長していく過程を描いていたものだ。続編的な作品『愛…しりそめし頃に…』と合わせて、当時に生きる少年・青年たちの青春を抒情的に描いている。 この傑作をあえてぼくの専門分野に引きつけてレビューすれば、『まんが道』は、「オートエスノグラフィ」だということだ。エスノグラフィ(民族誌)とは,もともと研究者が他者の世界のリアリティを解釈する表現方法を指す。そのなかでオートエスノグラフィは、その方法を自分自身(auto)にも適用、つまり、個人的な体験や実践を題材にそれを解釈して描く方法である。通常の研究では除外される感情や主観性を省察していくのが特徴で、アウトプットも論文に限らず、エッセイ調、詩、俳句、歌、写真、ダンス、パフォーマンスなど様々なスタイルをとる。 もちろん『まんが道』は、オートエスノグラフィを(少なくともその概念に託して)意図して描かれたものではない。自伝的性格の強いマンガといえども、実話7割、フィクション3割と著者本人が述べるように、あくまでそれは創作である。だがしかし、『まんが道』で描かれる満賀満雄の内面の省察的な描写は、当時の時代背景とあいまってマンガ家なる「職業」がどういう価値観と衝突し、そしてその中で一人の地方出身の少年がそうなっていったのかを魅力的に表現している。多くのオートエスノグラフィが、なんらかのマイノリティ性を背負ったテーマを扱っていることを考えれば、『まんが道』をオートエスノグラフィとみなすのはあながち間違いではないはずだ。そしてこれから、マンガというスタイルをとった、ある種の日本的なスタイルのオートエスノグラフィが登場してくるかもしれない。そのとき『まんが道』は、その系譜に確実に位置づけられることだろう。

タッチ

このレビューを考えているとき、ふと乗換駅で「クレジットカードのタッチ決済で乗車OK」というサイネージ広告が目に飛び込んできた。『タッチ』の連載は1981年から1986年。それから四十余年が過ぎて、訴求力がある作品だというのだから驚くほかない。 『タッチ』の物語は双子である上杉達也と和也、そして幼馴染の浅倉南という三角関係を中心に展開する。双子といえば、文化人類学では、双子はしばしば神話分析の題材として注目されてきた。レヴィ=ストロースは、世界各地の神話を横断的に分析したレジェンドであり双子の物語を多く扱ってきた。代表作『大山猫の物語』は、オオヤマネコとコヨーテに関する南アメリカ大陸の神話を「基軸神話」に設定して思索を出発し、そこに双子の見た目の同一性にこだわる西欧(古典)的な神話的思考——例えばふたご座のカストルとポルックスのような——とは異なる、瓜二つではありえない双子の形象にこだわる南北アメリカ先住民の神話的思考を浮かび上がらせたマスターピースである。 『タッチ』は見た目がそっくりな和也と達也が別々の属性(まじめ/ふまじめ、熱血/怠惰)を与えられて物語が展開する。そう考えてみると、日本のマンガにおいて双子がどのように物語られていったのか、を考えるのは面白いかもしれない。その意味で、『タッチ』は「熱血スポコン」を乗り換えたマンガの金字塔でもあり、日本のマンガ的思考を考えるうえでの基軸神話であるのかもしれない。

ベルサイユのばら

大学時代、サークルの文学部の友人が「ベルばら」が大好きだと公言していて、全人類必読と言われて初めて読んだのがぼくにとっての「ベルばら」との出逢いだった。そして当時、モテないことをこじらせながら、レヴィ=ストロースに惹かれて構造主義に傾倒したぼくが「恋愛の構造分析」の題材として選んだのも「ベルばら」である。 「ベルばら」は、基本的には悲恋の物語である。自他を焦がす情熱の描写は、社会的文脈のうえで常識と認められない(ゆえに成就しない)二項対立の関係のなかで展開する。物語の軸となる男装の麗人オスカルと従卒アンドレは「貴族/平民」、王妃マリー・アントワネットとその想い人フェルゼンは国境で引き裂かれる「既婚/未婚」という不義の間柄、オスカルを強く慕う下町の娘ロザリーは「同性どうし」の関係である。作中で婚姻関係にあるマリー・アントワネットとルイ16世は退屈な政略結婚として描かれる。つまり、恋愛感情が先にあるのではなく、成就しない関係ゆえに恋愛感情が発動する、それゆえに恋愛とは何かしらの二項対立的関係の「乗り越え」をつくることによって発動されるものだ、とハタチのぼくは「ベルばら」を通じて考察したのだった。 それから二十余年がすぎ、令和はかつてのような恋愛至上主義が退潮したような印象を受ける。かつて、六畳一間のアパートで、友人と「オスカルですらフェルゼンを好きになる世の中だもんな…」と下町のナポレオンを注ぎながら語り合ったのとは別の仕方で、令和の時代に「ベルばら」を介して恋愛について語ってみてほしい。

あしたのジョー

このレビューを書くために、ぼくは本棚にあった文庫版の第8巻を無造作に手にとって家を出た。そして、骨伝導イヤフォンで尾藤イサオの「あしたのジョー」を聴きながら、井の頭線のなかでジョーVSカーロス戦を読んだ。パラパラと暇つぶしにめくれない凄みがあるこの作品を読んだのは、じつに10年ぶり。ぼくが大学教員になる前にトーキョーで会社員をやっていたとき以来だ。『あしたのジョー』は、舞台がそうだからなのかもしれないが、トーキョーで読みたくなる。 髀肉の嘆、という中国の諺がある。三国時代に蜀の劉備が長い間戦場に行かなかったせいでふとももの肉が肥え太ったことを嘆いた説話にちなんで、手腕を発揮することなくむなしく過ごす時を嘆くことの意味だ。自分なりに一生懸命生きてきたはずの十年だったけれども、カーロス戦を読むとなんだかそれでも足りなかったんじゃないか、もっとストイックにやれたんじゃないかという心地がしてくる。「俺らにゃ荒野がほしいんだ」と尾藤ボイスが耳元で響く。キレイなビルと外国人観光客とくたびれた中年のぼくが同居するシブヤで。ドヤ街に住んでいたとか、食うに困った経験がなくても、なぜかぼくらはジョーに自分を重ねるし、都市の中にいて最も都市的なものから遠い存在に惹かれてしまうのだ。 カーロス戦の後、ジョーは紀ちゃんと懐かしの公園に行く。そこで紀ちゃんからボクシングを辞めたらと尋ねられると、ジョーは「負い目」があるからいまさらやめたいとは言えない気がする、と想いを吐露する。ジョーが力石やカーロスから「負い目」を受け取ったしまった。それが自身を駆動するのだと。ぼくもそうだ。「あしたのジョー」を読むたびに、そこから「負い目」を受け取って、このままじゃいけないと駆り立てられる。それは等価交換が当たり前の世界における、人間の本質からの抵抗なのかもしれない。

カムイ伝

本作は、忍者マンガという枠を超え、江戸時代の社会構造を鋭く描いた作品として名高い。 厳しい身分制度の下で生きる人びと、とりわけ被差別民であるカムイの視点を通して、当時の社会の矛盾や権力構造を浮き彫りにする様は、すでに多数のレビューの指摘のとおり、執筆当時の学生運動という時代情況を反映し、階級闘争のあり方の一つとして読まれてきた、 また本作は、文化人類学的に読んでもいまなお意義深い。たとえば中沢新一は、1988年のエッセイで、『カムイ伝』には3つのタイプの自然、すなわち、動物たちの生をとおして描かれる自然、カムイや夙谷に生きる人びとの自然、そして農民たちが管理しようとする自然…があると指摘し、それらの「自然」がせめぎあって生まれる近世的世界を描こうとしているのだと解釈する。そして中沢は、この3つのせめぎあいは、「いまもぼくたちの身体のなかでかたちをかえてつづけられている」とも語っている。作品からおよそ半世紀、中沢が読んだ時代から三十余年がすぎて、3つのタイプの「自然」は今もわたしたちの中でせめぎあえているだろうか。ぼくにはその自信がない。 未完のこの物語は、カムイを含む主人公たち3人が故郷を追われた後に蝦夷へ渡ってアイヌ民族と共に松前藩の侵略に立ち向かう構想だったという。海の向こうの大国では「きれいごとなんかうんざりだ」と言って憚らない人物が国のリーダーの座を奪い返した。ぼくたちの中にある「自然」に目を向けることは、こんな時代だからこそ重要なのかもしれない。