林家けい木HAYASHIYA Keiki
落語家
埼玉県出身
2010年、林家木久扇に入門し、この3月に「林家木久彦」として真打昇進。現在週刊少年ジャンプで連載中「あかね噺」の落語監修を務める。
この度はとても光栄なお役目をありがとうございます。この100選はいずれの作品も僕が生まれる前に完結しているものばかり。正直、始めは「過去の名作にレビューするなんておこがましい」とも思いましたが、考えてみれば本業の落語は100の作品よりも以前に作られたものが多くを占め、そんな噺を自身の解釈や演出で高座では扱っています。となれば、落語家としての活動と同じことと思いお受けしました。再読したもの、本件をきっかけに初めて触れたもの、とにかく楽しい時間でした。
レビューの一覧
「オスカル!」「アンドレ〜!」の台詞くらいは何処かで聞いたことがありましたが、実は不朽の名作「ベルサイユのばら」は今回のお仕事をお受けするまでは触れることなく生きてきました。
読んでみるとコレが面白い!なぜ今まで通らずにきてしまったのか!逆に今のタイミングで出会えたからこそ面白いのかもしれない!
こんなにもそれぞれのキャラクターの立場、思惑、矜持、欲望、プライドというありとあらゆる感情が渦巻いて、時に上手くハマり、時に虚しくもすれ違ってしまう。この歯痒さ、もどかしさこそが「ベルばら」の魅力なのかもしれない。
史実を題材にしたフィクションということもあって「ベルばら」を読んでフランス革命に詳しくなった人がいるのはもちろんのこと、本国フランスでは「歴史の授業以上だ!」との評価も受けているとか。
また昨今のマンガと違って、最低限の線でシンプルに作画がされてる70年代の画風。
特に「ベルばら」の特徴は目の中の星が輝き、顔の半分ほどの大きさの眼球、ショックを受けた際の白目などのマンガ表現も当日としては革命的な方法だったのかもしれない。
時代の潮流に巻き込まれて太く短い生涯を駆けたアントワネット、オスカル、アンドレ、フェルゼン。
それぞれの華麗でありつつも理不尽な人生は美しくものが儚く散ってしまうからこそ、発売から50年以上経った今でもたくさんの読者が心酔してしまうのかもしれない。
それが証拠に僕もそのひとりです。
"さぁ行くんだ その顔をあげて"
"999"との正面切っての邂逅はゴダイゴの唄う楽曲、そして映画作品第1作目、その後原作マンガという順番でした。
少年時代、学校から帰った夕刻にテレビへ映っていたのは途切れ途切れに観る断片的なアニメ再放送。
当時の僕は鉄郎の目的、メーテルの存在、999号の役割を何も解らずに観ていただけでしたが、ハタチを前に劇場版とエンドロールを初めて観てその歌詞の意味を知って、痛いほどに泣かされました。
それまでは単にアップテンポなアニメソングくらいに思っていた楽曲の全てが、生身のまま地球へ帰ってきた鉄郎と我々視聴者へのエールであり説法であるんじゃないかと思っています。
昨今、映画館でのエンドロール中に退場する観客の是非が問われることもありますが、銀河鉄道999の劇場版に於いては正しく、エンドロールも作品の一部です。
さて、なかなか話が動画作品寄りになってしまいましたが、原作では基本的には1話1惑星という具合で「機械の身体になって永遠の命がほしい」という願望で故郷を出立した鉄郎がさまざまなキャラクターとの出会いによって「限りある命の大切さ」、に気がつきながら生命の制限、人生の儚さや後悔を目の当たりにしていきます。
果たして鉄郎はいかなる決断をして、広大に広がるこの銀河系でどんな人生を歩むのか、この物語の終着駅をまだ知らない僕にとってはこの作品は現在進行形です。
そして999号は今日もどこかで星の海を駆っているんじゃないでしょうか。
日本には御手洗いを表す言葉が数多あってトイレ、お便所、雪隠、かわや、はばかり、閑所...etc。
また"レコーディング"...音入れとおトイレの洒落になっていたり、市外局番が045...おしっこという語呂合わせから御手洗いへ行くことを"横浜"なんて言う業界もあるそうだ。
作中で千兵衛博士はあらゆる発明をする、Dr."スランプ"と言われながらもその手腕は凄腕!時空を自由に移動できる"タイムスリッパー"や、「ドラえもん」の"ビッグライト"と"スモールライト"の機能を併せ持つ"デカチビ光線銃"、そしてもちろん"アラレちゃん"も発明のひとつだ。
しかし!ありとあらゆる発明品のなかで千兵衛博士でも作れなかったものがある。それはこの世界の創造主・鳥山明先生の手によって創られた。いや、捻り出された。
そう、僕が考える「Dr.スランプ」に於ける最大の発明は"うんち"だ。
鳥山明先生が考えたソ○トクリーム型のうんちは今やDr.スランプという作品の範疇に納まらない。
他作品に於けるうんちの作画表現では当たり前のようにあの形(同ジャンプ作品の「キン肉マン」のベンキマンの頭上うんちetc)。昨今ではスマートフォン"うんち"と入力すると予測変換の欄にあの形で絵文字まで出てくる始末だ。
日本だけでなく、世界に於けるデザインに革命を起こしたのはアラレちゃんでもなく、孫悟空でもなく、"うんち"だ。
またこの作品はとにかく隙がない。
物語の進行に関係のないペンギン村のモブたちの発言、機械のデザイン、さまざまなネーミング、落語やコントが元ネタであろうウケどころに至るまで鳥山明先生の引き出しの数々、使い方は足元にも及ばない。
きっと自分がリアルタイム読者であったら、更に理解の及ぶギャグシーンもあるんだろうと思っている。
ちなみにアラレちゃんの喋り方が「ら抜き言葉」のキッカケなんじゃないかと、密かに推測している。
では、ばいちゃ!
漫画・アニメーションの世界には名だたる巨匠がいますが、手塚治虫作品、ディズニー作品のなかには「この人は世界の全てを知っているんじゃないだろうか?」と思えるほどに驚きを覚える作品があります。
この「火の鳥」もそんな作品のひとつです。 私の好きな都市伝説の界隈では「人類の文明は幾度も崩壊と再生を繰り返している」という説があります。
もしかすると「火の鳥」の円環の物語が噂話の元になっている。ないしは、そんな都市伝説が生まれる以前から手塚先生はその説を"事実"として知っていたんじゃないかとも思ってしまいます。
さて、「火の鳥」は「黎明編」に始まり10いくつのエピソードで、1話完結型で構成されています。全てに目を通したわけではありませんが、いずれの物語にも火の鳥が現れては人々の営みを俯瞰し、絶望の淵に立たされた人物に光の方向性を諭して最適解に導こうとします。
昨今「いまを戦前にさせない」という言葉をよく聴きます。ロシア・ウクライナ、パレスチナ問題、北朝鮮の核保有などとても不安定で明日を楽観視できない世界情勢を、今まさに火の鳥はどこかの上空から傍観しているんじゃないでしょうか?
そしていつか誰かの元に現れる時を窺ってるんじゃないでしょうか?
ただ、火の鳥が我々の前に現れるタイミングが作中と同じだとすれば、ある程度の崩壊や争い、哀しみや苦しみを人類が味わった後なのかもしれません。 そんな日が来ないことを願うばかりです。
数年前、鬼太郎の原作を初めて読んで、未知の感覚に襲われた。
"底冷え"というか"虚しさ"のような。擬音描写を読んでもまったく音を感じない"静寂"で、それでいて直接脳内に音が届いてるような。ジト〜っとした空気が漂っているのにカラカラ。なんとも言語化しにくい奇妙な体験をしたマンガは後にも先にもこのシリーズだけ。
幼い頃に観ていたアニメの鬼太郎は、あの世とこの世の狭間で、悪い妖怪を人間の為に退治してくれるヒーロー...だが、原作を読み進めるごとに鬼太郎の立場は決して我々人間にとって都合のいいものではないことが解った。
彼はあくまで"妖怪族"の末裔で人間ではない。多くの場合、人間の生命を悪戯に使う妖怪たちの暴走を収め、妖怪と人間の間に起こる事件を解決することが彼の役目だ。
しかし時に鬼太郎自身が、素行の良くない人間と出会した際には妖怪としての戒めを見舞うこともある。
また事件解決の後には、数分前まで救済を懇願したはずの人間たちの態度の代わり様に肩を落とし、独りごちながら帰路に着くことも。
古くから"妖怪"とは、人間の欲望や念の具現化した姿と言われている。他者を騙し金を毟り取ってみたり、永遠の若さにすがり生命力を吸収してみたり、と作中に登場する妖怪はさまざま。
では、鬼太郎はいったいどんな感情の妖怪なのだろうか?それはきっと"平和な日常"だ。
南方諸島での戦禍を生き抜いた水木しげる先生の願望そのものなのかもしれない。人は愚かで、感情に走り、つい直前の失敗も忘れてしまう。
水木先生は鬼太郎を通して世間に訴えかけ、目玉おやじの言葉で諭しつつも、読者諸君もねずみ男のような欲に塗れた部分を持つ生き物なんだ。と教えてくれているのだろう。
しかし、作中でよく見るように鬼太郎の声は決して人間たちには届いてない。届いたところで長持ちはしないのだ。