江上 英樹EGAMI Hideki
マンガ編集者
1958年、神奈川県生まれ。マンガ編集者。小学館入社後、『ビッグコミックスピリッツ』など青年誌の編集を担当。2000年に『ビッグコミックスピリッツ増刊IKKI』(2003年から『月刊IKKI』)を立ち上げ編集長に就任。同誌休刊後の2014年に小学館を退社し、漫画&展覧会を扱う「ブルーシープ」を立ち上げる。その後、WEB漫画を企画・制作する「ワイラボジャパン」に代表取締役として参加するが2020年1月退社、2020年7月「部活」を設立。主な担当作品に『伝染るんです。』『サルでも描けるまんが教室』『東京大学物語』『月下の棋士』『Sunny』『Levius』など。
レビューの一覧
昨年亡くなった楳図かずお氏の代表作であり、多くの識者の方により様々な視点から作品論が語られている。その意味では本作に関して、筆者が新たに付け加えるような要素は見当たらない。本作に限らず、楳図作品に関して、一言だけ言えることがあるなら「この作品が存在しなかったら、一生の間、絶対に見ることができなかった光景」がそこには広がっているということであろう。正直、常人の頭では到底理解ができないような「とんでもなシーン」や「仰天する展開」も見られ、その強烈さからパロディーの素材にすらなってしまう部分も存在するが、その背後を流れる「とてつもなくピュアで崇高なる想い」の力で、結局は「感動」の坩堝に落とされてしまうのだ。
ちなみに筆者は『神の左手悪魔の右手』の一時期、氏の担当をさせて頂いた関係で、「UMEZZ PERFECTION!」という撰集を出させていただいたことがあった。その中に本作もあったが、楳図作品はどれも長い間に亘って、版を重ねてきたものばかりで、よく見ると刊行された時代時代の要請に応じて、テキストを変更している箇所が多々あることがわかる(もちろん「敢えて当時の表現をそのまま使います」という但し書きを使って、そのまま進める場合もあるわけだがーー)。その時の撰集でも同様のことがいくつかあったが、基本、氏はその修正に対してほとんど反論されたことがなかったのが思い出される。点丸一つにも拘る作家に対して、筆者は大いなる敬意を払うものである(自分もそちら側であろう)。しかし楳図氏は全く違った。あくまで想像であるが、楳図氏はこう思ったのではないだろうか? 「その程度の修正で、自分の作品は微動だにしない」――凄い確信である。
あまりに多くの評論を生んだ作品ゆえに取り上げることが憚られたが、今回の機会に(短編であることもあり💦)改めて読んでみて、やはり心がざわつくものを感じてしまった次第である。作家本人も「夢が元になっている」ということらしいが、多くの方もそう思うように、筆者も「自分が見たことのある夢のシーン」の断片が散りばめられているような錯覚に囚われてしまう。特に筆者はテツ(鉄道マニア)ゆえに、かつては頻繁に鉄道や線路が登場する夢を見ることがあった。しかも、ご想像通り、好きな趣味であっても、夢になるとなぜか楽しいものではなく、大抵は踏切で動けなくなるような「悪夢」の方が多かった。たまに蒸気機関車が機関区に集合したような嬉しい光景が出てきても、そのうち「ああ、こんな景色、本当はもうこの世にないんだ」と気づいて、泣きそうな面持ちで目を覚ますことになった。そうした筆者からすると、本作に出てくる数多く鉄道の描写は、悪夢というか、取り返しのつかない光景というか、そんな想いで否応なくゾクゾク来るものとなっている。
「なんて歩きづらい道なんだろう」と主人公が歩く、超望遠で捉えたようなグニャグニャの線路、ダージリンヒマラヤ鉄道よりも狭い路地を抜けてくる蒸気機関車、かつての阿里山森林鉄路らしきシェイ式機関車の炭水庫になぜか窓を開けて佇む主人公――どれもやはり、自分がどこかで見たことのある「悪夢の中の鉄道」に思えてならない。そして、一生忘れることのできないマンガの風景でもある。
ストーリーマンガ第1話のお手本と言える。『スポーツマン金太郎』(寺田ヒロオ著)と同様、実在のプロ野球球団や選手が架空のキャラと共演する構造であるが、昭和33年、球界の大スター長島茂雄の読売巨人軍入団パーティーという最高の場面を冒頭に持ってくるところが上手い。そして彼を迎える次期監督・川上哲治(やはり戦前からの大スター選手)が戦争によって史上最大の選手になり損ねた幻の三塁手、星一徹の話を始める。彼の編み出した魔送球というボールの説明とすると、いきなり会場からその魔送球が長島に向けて投げられる。しかし長島はその球筋を見切って、微動だにしない。それを見た川上は「星一徹がここに居る!?」と思うと、連れて来られた“犯人”は幼い少年。この子がなぜ魔送球を…?――こうして物語は息もつかせぬ展開を見せてゆく。
マンガはフィクションである。ある意味、なんでもあり。野球の試合で9回裏の10点差をひっくり返すのも簡単である。しかし読者に「ウソだろ!」と思われたら、そこで作品の寿命は尽きる。作り事の中にリアリティーをどう持ち込むかが、マンガの勝負処である。そして、そのリアリティーの与え方の一つが、本作でも見られる「すごい奴がすごいと思う奴がすごい」理論である。本作の場合、まず実在のすごい奴を冒頭で登場させ、彼に「魔送球を投げる子供はすごい」と言わせ、続けて「生まれてから毎日のように投球練習をして、同じ壁の穴を通すコントロールを身につけた少年はすごい」「我が子をそう育てた星一徹はすごい」と言わせる。しかも「棒切れでその球を打ち返して、壁の穴に打ち込む川上もすごい」「打ち返されてきたボールをキャッチして投球動作に入る星一徹もすごい」「そんな打ち返しができるのは川上しかいないと瞬時に判る星一徹もすごい」という具合である。このインフレこそが、勝負マンガにリアリティーを与える際の最強手段であると筆者は思っている。
今回のレビュー執筆に向け再読してみて、筆者にとって本作がベスト1に近い作品であることを再認識した。大傑作である。小山氏のデビュー作『おれは直角』を愛読していた者として、それに続く本作が少年サンデー誌上で始まったとき、前作同様の愛らしいキャラとキレの良いギャグを交えた親子ボクサーものだと期待し、実際に大変楽しく読ませてもらっていた。それが、突如、父親の死という、およそコメディーとは似つかわしくない展開に出会うことになって、心が震えたことを今でも記憶している。しかも、単なる物語上の段取りとしての「死」ではなく、すでに「どんなに主人公が父親を好きなのか!?」「どんなに父が息子を大事に思っているのか!?」を、そのギャグチックな展開で笑わされたり、ホロッとさせられたりしながら、十二分にこの父子に感情移入させられた末の「永遠の別離」であったからこその大ショックであった。逆に言えば、作者の術中に見事にハマったわけである。そこからラストまでキャラの無駄遣いなく、完璧なストーリーを仕上げてくれた小山氏に最大限の感謝をしたい。
ちなみに、本作の初代編集を担当した先輩に、本作を作る際のコンセプトを聞いたことがある。それは「相手に殴られた時より、相手を殴った時の方が、強く痛みを感じる人間が、ボクシングの世界チャンピオンになれるのか!?」というようなことだった。これ、素晴らしくないだろうか。これこそ『がんばれ元気』の背骨なのだ。頷かざるを得ない。その後、筆者が新作漫画を考える際のお手本とさせていただいたくらいである。もちろん、企画書だけが最高で、実際の作品がなぜかつまらないケースも数多い。本作を最高の作品に押し上げたのは、そのコンセプトから、血肉の通ったキャラを創出し、硬軟、緩急を自在に操りストーリーを編み上げた小山氏の「説得力」である。
マンガというジャンルは、今や「クールジャパン」政策とされる4.7兆円輸出産業の主要品目となるまでに大きく成長した。しかし、戦前の赤本漫画の時代より、マンガはすでにアート(自己表現)であると同時に、ビジネス(人気商売)でもあるという両方の側面を持っていた。そして、そこに携わる人間(マンガ家)は、決して近いとは言えない両側の崖に足を掛けて、ともすると股裂状態になりながら、創作活動を続けてきたと言える。しかもそれは孤独な作業である。同業者は同じ志を持つ友であると同時に、読者を奪い合う敵でもある。本作の各短編に通底するテーマはほぼこの一点に尽きる。しかも今と比べて、そのジャンルの社会的地位の低さが当時の状況をさらに残酷なものにしたことはあったであろう。そうした状況下で描かれた本作には「本当のマンガが描きたい」「しかし食っていける自信がない」といった、作者の分身たちの股先状態が痛々しいほどのリアルさで描かれている。
永島氏の作品を評して「独特のムードがある」と言われることが多い。片目を白眼にして、その空疎な内面を表すような描写などは独特の感覚を感じるが、決して「雰囲気マンガ」ではない。明確なテーマに向けて、やりすぎと思えるくらいに緻密にプロットを作り込んでいることから、自分の描こうとしているものへの自信と使命感を感じ取ることができる。ただ、その一方で作家本人が本作の登場人物同様に悩み、揺れ続けてきたことは確かであろう。実は筆者にとっての永島慎二初体験は「週刊少年キング」に連載された『柔道一直線』であった。メジャー週刊誌連載で梶原一騎氏とのコンビという、自身のキャリアとしては例外的な作品であろう。この作品がスタートした経緯、その際の本人の談話等は確認できていないが、結局、途中で作画を降板し、別のマンガ家(斎藤ゆずる氏)に交代したという事実は、永島氏が大いなる股裂状態の中でもがき続けていたことの証左であろう。残酷ではあるが、抜けられないくらい魅力的な世界がそこにはあったのだ。