欧文作品名読み者原作備考年掲載誌:

INAGAKI Takahiro

マンガ研究家・愛好家

1968年、愛知県に生まれる。2004年からブログ「藤子不二雄ファンはここにいる」を運営中。著書に『藤子不二雄Ⓐファンはここにいる』全2巻(社会評論社)などがある。『Pen+ マンガの神様 手塚治虫の仕事。』 (CCCメディアハウス) 、『映画ドラえもん超全集』(小学館)、『まんが道大解剖』(三栄書房)、『完全解析! 石ノ森章太郎』(宝島社)などに執筆者として参加している。

レビューの一覧

Dr.スランプ

『Dr.スランプ』の登場はカルチャーショックだった。当時小学生だった私は「なんだこの絵のうまさは! このかわいらしさは! このオシャレな感じは!」と目を見張るような鮮烈な印象を受け、その絵柄を見たとたん虜になった。今読み返しても当時の衝撃は裏切られない。ほれぼれする画力と画風である。 そんな卓抜な絵柄で描かれるスラップスティックで奔放なギャグの面白さにも魅了されるばかりだった。作中で炸裂するギャグの主な発生源であるアラレちゃんの魅力は絶大。その天真爛漫さ、好奇心の旺盛さに底抜けの楽しさと笑いを授けられる。そして、地球を割ってしまえる無双パワーの痛快なこと! アラレちゃんたちの暮らすペンギン村は、犯罪者や侵略者がよく出るし騒動だらけなのに、住民たちはみんな実に大らか。人間が住むだけじゃなく人間のように話す動物や天体がいるし、怪獣やら何やら不思議な生物もわんさかいて、自由で牧歌的なワンダーランドの様相を呈している。『Dr.スランプ』は、そのキャラクターからも作品の舞台からもイノセントな魅力があふれているのだ。 メタ発言・メタ表現の宝庫でもある。作者が作中にしょっちゅう登場することをはじめ、似た顔の美女しか描けない作者の弱みにつけ込んだ話があったり、今まさにアラレちゃんのいるページをアラレちゃん自身がハサミで切り取ったり、今このページを開いている読者の姿を写真に撮るなど、多種多様にメタな遊びが繰り広げられる。 それまでの多くの少年・少女マンガでは地味な脇役に甘んじがちだった“眼鏡キャラ”をオシャレな存在に押し上げたのも本作の功績だろう。アラレちゃんは「あの眼鏡かわいい! 私もかけたい!!」と読者に思わせるファッションリーダーになったのだ。それもまた革新的な出来事だった。

まんが道

二人で一人のマンガ家“藤子不二雄”の自伝的な作品。史実に脚色やフィクションを巧みに織り込んで描かれた篤実な名作である。藤子不二雄Ⓐが少年期に読んだ佐藤紅緑『一直線』、下村湖人『次郎物語』、ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』といった“主人公が物語の進行とともに成長していく小説”の感動を、自身の描くマンガで再生しようとした成長物語の要素も持つ。 マンガ家マンガの金字塔である本作は、創作を志す者の意欲に火をつけ、創作とは違うジャンルにいる者をも「何かやりたい」と熱い気持ちにさせる。「自分もマンガを描きたい」「マンガを描かなくとも何かに打ち込みたい」と読者に思わせる特別な力を有しているのだ。主人公の満賀道雄と才野茂が机に向かってカリカリと音を立てながらマンガを執筆する後ろ姿に、本作のその特別な力が象徴的に宿っている。本作を「人生のバイブル」と表明する人も少なくない。 マンガに歴史があることを教えてくれる作品でもある。その影響でマンガ史に興味がわいたり、さらにはマンガ研究の道に目覚めた読者もいるだろう。いまやレジェンド・アパートとして名高いトキワ荘を世に知らしめた立役者の代表格が藤子Ⓐであり『まんが道』であったことも胸に刻んでおきたい。手塚治虫を“神”のごとき存在として描いたインパクトも大きい。手塚の異名「マンガの神様」のイメージを決定的なものにしたのは『まんが道』だったにちがいない。 続編的作品『愛…しりそめし頃に…』を含めて藤子Ⓐのライフワークとなった本作の根底を貫くのが“あすなろの精神”である。「明日は檜になろう」というその意志が、本作の至るところに血流のように行き渡っている。満賀と才野(≒二人の藤子不二雄)にとっての檜とは、むろん手塚治虫であった。

漂流教室

荒れ果てた未来世界へ学校ごと跳ばされサバイバル状況に放り込まれた子どもたちに、続々と脅威が襲いかかる。その最初期における最大級の脅威は、本来なら子どもを守るべき大人たちだった。異常事態に際して、先に精神に変調をきたしたのも大人たちだった。そうした描き方に、「子どもであること」にこだわった楳図かずおの人間観が先鋭的なかたちで表出している。 一人の有害な大人を除いて子どもだけの世界になった極限的な状況の中で、学校を国に見立て、総理大臣を選挙で決め、各大臣を任命し、防衛や防疫や食糧確保や発電に取り組む。本作では、そのようにして生き残りを目指す、子どもたちなりの知力や理性が描かれる。そこで主人公・高松翔が次のようなことを訴える。これからの自分たちにとって勉強とは、よい成績をとればいいというものではなく、自分たちの生死に直結してくるものになる。今まで自分たちが学校で勉強してきたのはこのためだったのだ――。 翔が言ったとおり、机上の知識としか思えなかった学校の勉強が、生きるために切実に必要なものとして突きつけられる。勉強の大切さをここまで強烈な迫真性をもって訴えかけるのだから、その意味で『漂流教室』は真に教育的なマンガといえるだろう。 と書いたそばから前言と矛盾するようなことを述べるが、本作は、学校で教わったとおりにしたら危ないことになったり、既存の常識が通用しない事態が多発する。現代に生きる者からしたら、ひどく不条理な世界なのだ。綺麗事ではすまされない子どもたちの残虐性や獣性が露呈する場面も多い。凄惨な殺し合いすら起こる。それでもなお、翔たちはみんなで生き残ろうとすることをあきらめない。物事を理屈でとらえてしまう大人たちには耐えられなかった不条理な世界で、子どもたちは子どもであるがゆえにその世界を受けとめて生き続けようとするのだ。

ドラえもん

藤子・F・不二雄は「『ドラえもん』の通った後はもうペンペン草も生えないというくらいにあのジャンルを徹底的に描き尽くしたい」と語っていた。その望みは藤子Fの他界によって絶たれたかに見えたが、1300話以上に及ぶ『ドラえもん』各話のバリエーションの豊かさをあらためて確認すれば、きわめて高いレベルまで達していることがわかる。 そんな『ドラえもん』を「現代の民話」と喝破した人がいる。その比喩に触れたとき、言いえて妙だと思った。藤子F自身が『ドラえもん』のルーツとして「グリム童話」「西遊記」「アラビアンナイト」など民話由来の作品をあげているし、『ドラえもん』という作品の様式・構造や時代の超え方を見ると、まさに「現代の民話」という比喩が的確なものだと納得できる。民話とは口伝えで連綿と後世に語り継がれてきた物語だが、『ドラえもん』はマンガという手段で世代を超えて読み継がれている。 『ドラえもん』に「現代の民話」という比喩が相応しいとしても、そういう比喩の手を借りる以前に『ドラえもん』はマンガらしいマンガの代表例である、と付言しておきたい。マンガの一つの典型でありスタンダードであるような作品だと思えてならない。少なくとも、1960年代後半からそれ以降に生まれた世代のかなりの人々にとって、『ドラえもん』はそういう存在たりえているはずだ。われわれの成長過程の中で普通にそばにあった作品であり、マンガへの入口の機能を持ち、みんなの共通体験になっている。 ドラえもんはのび太を助けるため未来の世界からはるばるとやって来た。私のところにも来てほしいと思ったが、もちろんその夢はかなわなかった。しかし私には、われわれには、物心がついたときから『ドラえもん』のマンガが身近にあった。『ドラえもん』を読むことが日常的な救いになってくれたのだ。

火の鳥

大きくて、深くて、面白い。『火の鳥』はそんな作品だ。 過去の編と未来の編を交互に描きながら現在へ向かい、そうやって複数の編を描き継ぐことで全体を完結させようという壮大な構想だったが、手塚治虫の他界によってその全体像を見ることはかなわなくなった。だがそうであっても、各編を読み通していけば手塚が思い抱いていた構想の大きさ、テーマの深遠さに心を震わされ、未完なのに、いや未完であるがゆえの無辺の達成に圧倒される。 マクロとミクロ、永遠と有限、全体と部分、精神と肉体、生命と機械、権力と被支配、聖と俗……。そうしたさまざまな事象に縦横に踏み込みつつ、おのおのの時代に生きる登場人物たちの業や欲や愛や葛藤や運命や闘争の物語を濃密に描き出す。そうすることで「生命とは何か」「生と死とは何か」を恒久的に問いかけ続ける。 そんな深遠な作品性やテーマ性の話を抜きにしても、各編がどれも物語マンガとしての面白さに満ちていて、マンガを読むこと・物語に耽溺することの愉悦をたっぷりと授けてくれる。各編はそれぞれ独立した内容をもちながらも、狂言回しである火の鳥を媒介につながり合っている。一つ一つの編の独立性と連関性が交錯する綾を楽しめるのも本作の醍醐味である。 個人的な嗜好をいえば、「未来編」から感じる気の遠くなる超大な時間の流れ、「鳳凰編」に見られる輪廻転生的な世界観と宗教・政治・芸術のありよう、「復活編」が描く人間とロボット間の異類恋愛の顛末などに格別の衝撃と愛着を感じる。「太陽編」の「一つのよからぬ権力が倒れても、次に誕生する権力もまたよからぬものになる。ただ権力者の顔が入れ替わるだけ」という、他のいくつかの手塚作品にも通じる歴史観も心に刻まれる。