欧文作品名読み者原作備考年掲載誌:

SUZUKI Kenzo

日仏翻訳者、ライセンス・コーディネーター。

新旧の世界のマンガ作品が掲載される仏コミック誌『月刊シャルロット』(Carlotte mensuel)の漫画セレクションをはじめ、大塚英志作品、坂口尚作品などの海外出版に携わる。
主な翻訳:『あっかんべェー 一休』坂口尚、『無頼の面影』安部慎一、『北斎まん画』ケン月影(2025年刊行予定)など、小説では『シャトー・ルージュ』渡辺淳一、『花と蛇』団鬼六(2025年刊行予定)。
日本のマンガを頑固なフランス人に提案し、出版するように説得している経験から各作品をレビューします。

レビューの一覧

蔵六の奇病

日野は1967年『COM』でデビューした。翌年には名作『どろ人形』で『ガロ』でも入選を果たす。その後、日野は様々な作品を雑誌に掲載したが反響は鈍く、マンガ家としてやっていくことを諦めかけた。本作『蔵六の奇病』が制作されたのはそんな頃だった。バイト暮らしで時間がない中、修正を重ね、少なくとも1年は費やしたという。 何度も推敲すると文章は次第に濃密かつコンパクトになる。描線からベタ、点描の背景やセリフ、物語構成、全てに熟慮を重ねた本作がまさにそうだった。ある種わかりやすいのに、ディテールに忍ぶ作者の執念が読者の無意識に作用するのか、なんとも言えぬ読後感を生む。 一読では、寒村の因習をグロテスクに描いたよくある民話のようだ。おびただしい動物の死体、七色の膿とその異臭、無垢な主人公への理不尽なイジメなど、生理的嫌悪感を引き起こすものがあの独特の絵柄で描かれる。日野はこれらで読者の感情を揺さぶっているだけのようにも見える。 だが、こうしたホラー的な装飾の向こうにモヤモヤした読後感の正体はある。例えば、もう一つの代表作『どろ人形』のガロ版と少年画報版を読み比べて欲しい。ガロ版ではまだホラー風の味付けはなされていないが、それでも本作と似た読後感をもたらす。そこではまず、子供たちが煙突の並ぶ工場の空き地に集まる様子が可愛らしいタッチで描かれるが、ラストで巨大などろ人形が風に唸り声を上げる。なんとも不気味だ。牧歌的なシーンに気を許していた読者はラストで意外なものを見せられ、違和感になんとも言えない気分になる。描かれているのは、無邪気な遊びのノスタルジックな原風景なのか、遊び場を奪われた子供の怨念と復讐の呪術なのか。 初期作品に明らかなこうした「叙情」に近い感覚は日野作品で見逃されがちな特徴で、本作にもそれはある。初めてホラーを描いた日野は、何か新しいスタイルの抒情性を生み出すことに成功したのだ。過剰で剥き出しの残酷な叙情性。感情の振り幅はより大きく、読者はその間で宙吊りにされる。言葉は出ないが、胸に刺さる。 本作はハッピーエンドなのか、そうでないのか。そこに至るまで何が描かれ、何が描かれていないのか。「蔵六」はなぜ夢の中でだけしか言葉を発しないのか。「七色」とは美しいのか、グロテスクなのか。「ねむり沼」は天国か、地獄か。実はすべてを日野は描いている。

弓道士魂 〜京都三十三間堂通し矢物語〜

ディズニー好きでサブカルに理解のあった三島由紀夫は、1970年2月週刊誌に『劇画における若者論』と題された短い記事を書いている。その中で三島はメジャーになっていくと同時に毒気を抜かれ「図式化」していく劇画に対して苦言を呈している。三島はブームのずっと前、「アメ横」でしか買えなかったころの貸本時代から劇画に親しみ、とりわけ「野生も活力も、力強い野卑も、残酷も」あふれていた「平田弘史の時代物劇画」がお気に入りだったという。 ここで三島が若者に託すのは、陳腐な「大正教養主義的なヒューマニズムやコスモポリタニズム」に陥るのではなく、「突拍子もない教養」、「貸本屋的な少数疎外者の荒々しい教養」を模索して欲しいというメッセージである。記事の日付に注目しよう。三島の自決は同年11月25日であり、数年前に映画となった「全共闘」の若者との対話は同年5月である。運命の日に向けて周到な準備を重ねた三島である。この記事も、全共闘の若者に対したときと同じく真剣なものであろう。それに「貸本屋的な少数疎外者の荒々しい教養」とはまさに平田弘史の描く世界のことではないのか!? 本作は、関ケ原の猛者たちがまだ存命の荒々しかった江戸時代の寛永年間、京都三十三間堂で実際に行われていた「通し矢」を巡る物語だ。主人公の星野勘左衛門を始め実在の人物がモデルとされ、年齢など若干の変更を加えただけで実話であると平田は書き添えている。「通し矢」とは、一昼夜、六十六間(120メートル)もの距離を、上の廂にも下の濡れ縁にも当てることなく、何本の矢を飛ばせるかを競うもので、各藩、特に互いをライバル視していた尾張藩と紀州藩が激しい記録争いをしていた。これは単なるスポーツではなく、藩の名誉を賭けた真剣勝負で、敗者の多くは切腹をもって汚名を注いだ。 そう、平田弘史と言えば切腹である。本作だけでなく、多くの作品で、己の意地を通すため、家名を守るため、讒言するため、権力の理不尽に抗議するため、壮絶な切腹がしばしば描かれる。近代的な価値観からすれば馬鹿げたことでも、我々の倫理観からすれば残酷で暴力的なだけに見えても、荒々しい平田の絵柄で描かれると尋常でない説得力があり、むしろ生ぬるく生きている自分の方が命を無駄にしているのではないかと自問せざるを得ない。「少数疎外者の荒々しい」切腹に、命がけの生の肯定を見るのだ。三島の自決がときに揶揄されることがあるように、命がけの真剣味は滑稽に見えることがある。他人の目を気にする我々の日常では命を賭けて意地や信念を貫き通すことなどほとんど不可能である。それでも、せめて三島と平田からのメッセージを真摯に受け止めたい。私は本当に生きているのかと。

龍神沼

その後の少女マンガが内面描写を重視したという点で、本作は少女マンガの源泉の一つであり、その表現の方向性を決めた画期的な作品。しかも、石ノ森は『マンガ家入門』の中で本作を理屈で一コマ一コマ、惜しみなく解説した。この点でその後のマンガ家に与えた影響は計り知れない。このころの石ノ森の斬新なカッコよさを、大塚英志氏は、70年代の大友克洋に例えていたが、今となってはこの例えは通じないかもしれない。 かくして、本作は、短編マンガ作品としての完成度の高さ、そしてそれらが言語化されているがゆえに、マンガ家になりたい人が学ぶべき恰好の「教材」としての側面がある。同じ理由でマンガに関わる仕事につきたい人にとっても、古典的なマンガ表現の理解に必須の参照作品だろう。 大塚英志氏は10年ほど前、海外で盛んにマンガ創作のワークショップを行っていたが、その課題はシナリオ化した本作の一部からマンガのネームを作成するというものであった。大塚氏は参加者が描いた各々のネームを、書画カメラでスクリーンに写して添削した。イスラエルやシンガポール、フランスといった国々で、マンガ家志望の学生がシナリオを読み込んで思い思いのスタイルで図像化・コマ割りし、それを「編集者」がアドバイスをするといったやり取りを想像してみて欲しい。私はこのワークショップのフランスでの開催を何度かコーディネートさせていただいたが、十人十色のネームを拝見することが出来てマンガの奥深さを再認識した。大塚さんの試みは『世界まんが塾』という本で詳しく報告されているのでぜひご参照されたいが、一つ例を上げよう。参加者の一人、パリの中学の美術教師サラさんは、ガロというかオルタナティヴ・コミック風の絵柄で、本作ラストの別れのシーンを描いた。大塚さんの前日の講義を聞いただけで彼女は、なんと逆方向の左綴じのコマ割りにも関わらず、本場アメコミなどと違って非常にスムーズに「映画のように」読めるネームを仕上げてきた。本作は洋の東西を越えてマンガの描き方を学ぶことが出来る優れたお手本なのだ。かくもマンガ表現として完成度の高い本作を是非一度手にとって欲しい。

漫画家残酷物語

「なんか古めかしいタイトルだなぁ」と思う人は40代くらいか。もっと若い世代にはタイトルのニュアンスは伝わらないだろう。昔、大島渚という「朝まで生テレビ」で眠くなる時間帯に怒鳴るお爺さんがいて、その監督の出世作『青春残酷物語』(1960年)が元ネタである。この映画は若者のカルト的人気から商業的ヒットへと大化けしたので、やったらめったら「〇〇残酷物語」というタイトルが映画などにつけられた。だが終いには1962年イタリアのフェイク・ドキュメンタリー映画が『世界残酷物語』というタイトルで大ヒット。猟奇的なシーン満載のこの手の映画は「モンド映画」と言われ、70年代に一大ジャンルとなる。ここで変な色がついた。このタイトルがどうもピンとこないのはそのせいだが、本作は当時の若きマンガ家たちに芸術的な自意識をもたらしたカリスマ的作品でなのである。 時代性を纏いすぎた作品が後年あらぬ誤解を受けるのは世の習いで、本作は今ではあまり読まれない作品になってしまったようだ。しかし永島慎二という作家はかなり稀有な存在で、梶原一騎と組んでスポ根マンガ『柔道一直線』を描いてエンターテイメントとしても成功し、『漫画家残酷物語』の続編『若者たち』はNHKで『黄色い涙』と改題されてドラマ化されて(2007年に嵐の主演で映画化も!)、芸術志向の若者だけでなく、広く一般にも感動を与えた。永島は手塚の誘いを受け虫プロで働いた後には、なんと「ガロ」と「COM」の両方に作品を掲載し、寅さんより早く『フーテン』というタイトルの作品を刊行。80年代にすでに米国で翻訳されたユーモアまんが『旅人くん』という作品もある。永島マンガのテイストは多岐にわたり、プロから尊敬された「Musician of musician」なのだ。 同時期に虫プロで同僚であった坂口尚は、兄貴分のように永島を慕い、毎日のように飲み歩いていたという。そんな坂口は永島作品それ自体よりも彼の創作姿勢に大いに影響されたと語っている。おお、これはまるでリアル『漫画家残酷物語』ではないか!

ねじ式

つげ義春は2020年1月アングレーム国際漫画祭で「特別栄誉賞」を受賞した。『つげ義春全集』の刊行が始まったのはその前年である。フランスでかくも注目を集めるつげであるが実はマンガブームとは別の文脈にいる。おそらく移入の仕方が違ったのだ。欧米ではどうも「ガロ系」作品をオルタナティヴ・コミックス(以下、COMIX)と雑に一括りにしている気がするのだが、実際は因果関係が逆で、ガロ作品などの中からCOMIXっぽいものを選んで出版したので、結果そのように見えているだけではなかろうか。90年代半ばフランスでこの手の作品を出すインディーズ出版社が一定の成功をおさめ、創設・合併ブームが起きた。つげの移入はこの流れに属するのだ。 つげ作品を米国で最初に掲載したのは『マウス』で有名なスピーゲルマンが始めた雑誌「Raw」であり、『紅い花』が 1985年、『大場電気鍍金工業所』1990年である。スピーゲルマンとこの雑誌こそCOMIXの発展に寄与した媒体であり、つげ作品は最初からこのジャンルに入れられていたわけだ。「Raw」はフランスでも読まれており、間は空くがこの流れで2004年に『無能の人』がEgo comme Xという出版社からフランスで最初に出された。仏版『つげ義春全集』を出したのも、エゴがXだという奇妙な名前のこの出版社も日本マンガ専門ではなく、日仏米など世界のCOMIX、グラフィック・ノベルを出している出版社である。この手の出版社のお好みは「自伝的」であるということだ。戦争体験や精神疾患、移民のアイデンティティなど内的葛藤を描く作品が多く、現在ではフェミニズム、LGBTをテーマにしたものも流行りだ。2024年藤原マキの『私の絵日記』がアイズナー賞「最優秀アジア作品賞」を受賞したが、おそらくつげ夫人ということで米国でも同じ文脈で読まれているのだろう。 だが本作『ねじ式』はこの文脈で読めるのだろうか。確かにつげには「私小説」的と言われる作品群があるが、本作を夢と狂気だけに還元して読まない方がいいのではないか。マンガ表現や制作・産業構造、それらに対する批評的スタンスといった切り口も可能なはずで、実際に日本では本作を読み解こうと様々な文章が書かれてきた。だから本作を未読の方は頭をまっさらにしてまず読んでみて、次に本作の謎が気に入ったら文献を駆使して考察を深めてみて欲しい。 本作の読みの国際的なギャップの存在が、我々が海外の日本マンガ読者とではなく、海外の海外マンガ読者との対話を深めるための重要なカギとなるのかもしれず、この対話は日本マンガの未来に寄与するかもしれない。日本で本作が多くの人に読み返され、海外の同好の士と議論できる日が来るのを待ちたい。