欧文作品名読み者原作備考年掲載誌:

KAZAMA Miki

イベントプロデューサー・キュレーター

六本木ヒルズ、麻布台ヒルズ、TOKYO NODEのイベントプロデュースや都内でのアーティストと協働による展覧会キュレーションに携わる。
主な展覧会に、セーラームーン展(2016)、藤子不二雄A展(2017年)、セーラームーンミュージアム(六本木ミュージアム 2022年)、水木しげるの妖怪 百鬼夜行展(2022年)、水木しげる記念館リニューアル(2024年)、火の鳥展(2025年)など。

レビューの一覧

いつもポケットにショパン

くらもちふさこの絵はすごい。特にカラーは、一度見たら忘れられない美麗さ。絵本ではない、しっかりとマンガとしてのヒロインのかわいさを魅せながら、これから始まる物語への期待を思わせる、特別な存在感がある。本書はかわいいタイトルに、軽やかな恋物語かと油断して読み始めたのだが、読み終わって強烈なショックを受けた。「人はどうしたら成長するのか」がこの本のテーマの一つだと思う。くらもちふさこが描く人物は、いつもどの作品でも、まるで本当にそこにいるかのような重さを持っている。主人公の女の子と、恋の相手である少年の母親同士がライバルという、ジェットコースタードラマのような展開は80年代的な刺激に溢れている。 ピアノの先生に、ライバルである同級生たちに、大好きな幼馴染でありピアノのライバルでもある幼なじみの「きしんちゃん」に、そして自分を認めてくれず厳しい言葉ばかり投げつけてくる母親に、どんな風に立ち向かっていけばいいのかわからなくて泣いたり怒ったりする主人公の弱さにヤキモキする。髪もろくに結べないような主人公が、友人に叱咤され、厳しい松苗先生に怒鳴られ泣かされ、それでも諦めずに、ピアノに感情を乗せ、表現者になった時の表情は、ページを目にしただけで、今思い出しだけでも喉が詰まりそうになる。 「どぎつい」一言を言われても許せる、言い返しても大丈夫と思える家族や、先輩、友人との関係性は、今どれほどの人が保てているのだろうか。 舞台が開発される前の代官山というのも興味を惹かれる。2024年6月に亡くなった建築家・槇文彦の設計で代官山ヒルサイドテラスができたのが1969年。本作品の出版は1995年。代官山アドレスが竣工したのが2000年なので、まだ都市開発が本格的に進む前の、のどかな代官山の街が描かれている。東横線もまだ延伸される前で、渋谷と桜木町を地上で繋いでいた頃だ。

童夢

端的に言ってものすごくかっこいいマンガなので、SF&ミステリー好きな方々にはぜひ一度は読んでもらいたい。その上で、東京という都市が戦後どういう変化によって成立して、どう家族の形態は変化してきたのか、ということにも思いを馳せてみてもらいたい。 物語に出てくるのは巨大な団地群。戦後の住宅供給不足を解決するために、各地の里山は開発され、各地の都市近郊に団地が建てられていった。「童夢」は巨大な団地の中で起きる不可解な殺人事件の行方を描いている。 この作品が発表された1980年は、第四次中東戦争が原因でオイルショックが起きた年。それよりも前の1970年、日本は科学技術に大きな期待を持って大阪万国博覧会を経験し、その後、学生運動、経済成長率の停滞による物価上昇、光化学スモッグなどの公害問題を経験した。1974年は、セブンイレブンが豊洲にオープンして、単身生活が急速に一般化していく頃でもある。 戦後の急成長で団地が普及し、都市にサラリーマンとしてお金を稼ぎ、家族を養う核家族が増殖した。隣同士が顔を突き合わせて、どこの子供か一目でわかっていた暮らしから、コンクリートで隔たれた暮らしに変わり、「隣の人は何する人ぞ」状態が生まれていく。 作品では一人で暮らす老人男性に焦点が当たる。団地内に認知症とされる老人男性が住んでいて、誰の仕業かわからない事件が夜な夜な起こる…。姿を見せない犯人を追う刑事の視点で物語は進んでいき、まるでヒッチコックの映画を見ているような気分になる。かつて赤坂憲雄の「排除の現象学」に記されたように「均質の時間によって支配される、主婦と子どもたちの街」が壊される恐怖なのだ。ジワジワと謎解きが進む恐怖、隣人に興味を示さない住民たち。都市という構造への疑念、そしてそれが今でも続いているという危機感を掻き立てられる。

ドラえもん

ドラえもんは、私にとってインフラのようなものである。スマホとかWi-Fiのようなそこにあることが当たり前の存在。それがドラえもんである。 ドラえもんは2112年9月3日生まれ。手塚治虫の火の鳥に出てくるロビタは2900年くらいなので、火の鳥の世界線よりドラえもんの世界はテクノロジーが発達している。手塚治虫に憧れ、デビュー前から手塚治虫と文通していた藤子・f・不二雄。我孫子元雄と2人、富山県から上京し、藤子不二雄名義で活動していた最初期は、手塚治虫が仕事場にしていたトキワ荘の部屋を敷金なしで譲ってもらった逸話が、藤子不二雄Aの『マンガ道』に残されている。 てんとう虫コミックスで全45巻、映画化された長編は別物として発行されている。長編の中ではまだ作者がご存命中の作品である1992年公開の「のび太の雲の王国」を紹介したい。 雲の王国は、その名の通り雲に乗って、雲で生活できる場所を作るのである。なんて夢があって楽しいのだろう。昨今のテクノロジーの発達はめざましいが、どうも楽しい気持ちにならない。人工知能が人間を支配するとか、暗号通貨のマイニングによる環境破壊だ、とか、SNSでフェイクニュースが流れて政治に悪用されている、闇バイトが秘匿性の高いアプリで横行している、とかうんざりすることばかりだ。ドラえもんは、そういうディストピアをしっかり無くして、みんな反省してやり直すというユートピアに溢れている。間違いや人の弱さを受け入れる許容性を持っている。 欧米圏では弱い子供が主人公だと受け入れられないとかで、いまだに認知度が低いと聞く。それは浅はかな捉え方だろう。強さとは、身体的な見た目や経済条件だけでは決められないことが、いつか伝わることを願う。

ゲゲゲの鬼太郎

最近、ゲゲゲの鬼太郎が流行っている。「ゲ謎」映画の大ヒットがすごいのだ。目玉おやじがイケメンになり、愛でられることになるとは夢にも思わなかった。 水木しげるは1922年生まれ。第二次世界大戦で徴兵され、のちに帰国して漫画家となり、昭和史やラバウルでの戦争経験を作品として発表した。2024年にリニューアルオープンした水木しげる記念館は、水木しげるの戦争体験紹介に重点を置いている。僭越ながら、記念館の構成や最初の企画展は手伝わせていただいた。 貸本漫画で最初に発表された『鬼太郎の誕生』は、大筋は同じだが、血液銀行の社員が鬼太郎をみつけ、その後どうするのかで出版された4本ごとに話の筋立てが違っている。 水木しげるはねずみ男がお気に入りだったそうだ。インタビューでは彼がこの作品の味わい深さを作っていると発言している。彼を強烈に印象付けるのは、金に汚くて都合が悪くなると逃げるというその人間らしさだ。ねずみ男だったら、TikTokやトランプ大統領をどう評するのだろうか。 鬼太郎作品は数が多いので、自分の好きな鬼太郎を探すのもおもしろい。「おばけナイター」や、妖怪好きなら知っている「深大寺のすき焼きパーティー」も名作だ。境港やラバウルで数々の不思議な体験をし、東京に出てからも夜中に墓場を散歩した、と自身でも記している水木しげるならではの世界観だ。「新ゲゲゲの鬼太郎」では、鬼太郎の背が高くなり、服も現代的だ。出版社からの要望でちょっとアダルトになったそうだが、そんな急な変わりようもユーモアたっぷりで、楽しい。 2024年の夏に開催された「行方不明展」、2025年には「150年」という展覧会が20代にずいぶん人気になった。自分でも見に行ったが、確かに凄い人だった。清潔で安全で明るくなった都市の生活では味わえない感覚を、本能が取り戻せと言っているのかもしれない。鬼太郎は、そんな暗くて、怖くて、湿った感覚に溢れていると思う。

火の鳥

私にとっては人生の中で最も好きな作品で、幼い頃に父の蔵書から見つけて以来、毎年ことあるごとに読み返している。 厳密には、1954年に「学童社」が出版した雑誌 『漫画少年』の掲載が初出だ。主要な物語はその後連載された『COM』『マンガ少年』『野生時代』で掲載された12編で、編ごとに時代が異なったり宇宙に飛び出したりするものの、ほぼ日本を舞台としている。日本の神話に出てくるイザナギ、イザナミや、卑弥呼、義経、平清盛、天智天皇、大海人皇子、果ては人工知能、頭脳が発達したナメクジに至るまでが権力闘争を繰り広げ、火の鳥を狂言回しにして永遠の命をめぐる争いが描かれる。 作中には猿田彦という鼻の大きなキャラクターがいて、猿田彦を除いてこの作品は成立しない。彼は未来永劫この世を彷徨うことを運命付けられてしまう。悲劇的主人公のような感じもする。2025年現在、猿田彦といったら猿田彦珈琲と答える人もいそうだが、古事記、日本書紀に登場し、「天孫降臨」で道案内をしたとされる、日本神話の重要な存在なのだ。 今回文章を書くにあたりいろいろ調べていたところ、戦後間もない1950年ごろに、手塚治虫が天照大神を主人公にした「天岩戸」という漫画を光文社に提案したと、手塚治虫のエッセイに記載があった。その時は神話を漫画にするなんて、とボツになったそうだ。虫好きで知られる手塚治虫だが、中学時代には地歴部に入っていた。古代への思い入れは大きく、それが火の鳥に結びついているのかもしれない。 とにかくこの作品ではたくさん人が死ぬ。権力闘争、嫉妬や虚栄心、承認欲求による人間同士の争いはいつの時代も変わらずに存在することを思い知らされる。歴史の大きなうねりを描きつつ、ミクロな人間の生き様にも焦点が当てられたこの作品を、今読み返す意義は大きい。