黒木 貴啓KUROKI Takahiro
仮面とマンガに関心の強いライター/編集者
1988年生。2013年より「マンガナイト」メンバーとして、マンガのレビューやイベントレポート執筆、企画を多数手掛ける。2017年にZINE『となりのマンガさん』発行、2019年に都内の銭湯でマンガを紹介&販売するイベント「マンガで入る銭湯サウナ」開催。ライフワークとしていた仮面の研究熱が高じ、2022年よりリトルプレス『面とペルソナ20’s』を発行。好きなマンガ家に仮面のマンガをちょこちょこ描いてもらっている。今回は「昭和最後の年に生まれたゆとり世代が、令和の子に届けたい戦後の名作」をテーマに執筆しました。
レビューの一覧
穢多(えた)・非人(ひにん)。江戸幕府が百姓たちの不満のはけ口として、士農工商の身分制度でさらに下位に設けた存在ーーと学校の授業でざっくり習ったことはあったが、ゆとり世代の私がその凄惨さを真に知る機会は『カムイ伝』に出合うまでなかった。
米一合をつくるにもとんでもない重労働を必要とした時代、非人はその農作業にすら就くことが許されない。与えられる仕事は、家畜や人間の死体処理。さらには一揆を企てた百姓の死刑執行人など、とにかく百姓たちから敵意や嫌悪感を向けられるような役目に絞られている。その非人道的行為のすべては、下々の者たちが結託して力を持たないよう分断し、米と金が幕府へと流れ続けるための支配構造につながっている。
格差は賤民との間だけでない。農民、武士、そして忍者の世界にもヒエラルキーが存在し、下層の者に対しあらゆる理不尽が横行する。
えぐい。人はこんなにほかの人間の尊厳を奪えるのか。これが日本で起きていたのか。写実的な線でありありと描かれる、支配者が平然と差別統治を行う姿、虐げられる民の無念さに、ついこちらも歯を食いしばってしまう。
同時に、それぞれの階級から己の夢を叶えるために反骨し続ける主人公たちの姿に大きく勇気をもらう。特に百姓である正助と非人のナナが、裸のまま身体を寄せ合いながら村人たちの前で愛を宣言するシーンは美しくて涙せずにいられなかった。
本作は要所要所で作者の解説文が差し込まれるが、百姓と非人が関係を持つことはご法度だった時代に、例外中の例外としてこの時代に百姓と非人が婚姻した史実がきちんと残っていることも白土は読者に説明する。膨大な資料研究に基づく徹底したリアリズムがあるからこそ、平等の精神、愛と自由を貫こうとする主人公たちの姿がよりいっそう美しく輝くのだろう。
米国で第二次トランプ政権がはじまり、他国の人や障害者への敵意を煽る発言が連日ニュースで流れてくる。カムイ伝で描かれている、支配のために分断をもたらす為政は決して遠い過去の出来事ではない。今の時代だからこそ読みつがれたい作品だ。
「なぜ私達は生まれ死にゆくのか」「命とは何か」。人類にとって普遍的な問いを、手塚治虫というマンガ界の巨匠が、歴史、地理、生物学、医学、宇宙科学、その幅広い知識を総動員させながら、卓越した画力とストーリーテリング、ユーモアをもって娯楽作品に昇華させた名作。
ゆとり世代の私が本作を初めて読んだのは二十歳の頃だった。邪馬台国の時代を扱った「黎明編」に、奈良飛鳥時代の「鳳凰編」、源平合戦期の「乱世編」など、本シリーズには日本史を下敷きにした編がいくつもあるが、その中で描かれる権力者たちは学校の授業で習った”偉人”とはちょっと違う。老いを恐れるあまり乱心する卑弥呼、大仏の建造で下層にさらなる飢えと苦しみを与える朝廷、武勲に執着して百姓の命を踏みにじる源義経ーー。武勇伝が語られがちな人物たちが、地位や名声、欲にまみれて民の暮らしを蹂躙する姿が描かれる。そして事実として、統治や戦というものは多くの犠牲の上で成り立つ現実を突きつけてくるのだ。常識、価値観の反転の連続。戦争の記憶が薄れつつある世代の自分に冷水を浴びせる、ロックで、パンクで、オルタナティブな存在が『火の鳥』だった。
「復活篇」でもロボットと人間の恋が、「太陽編」では平安と21世紀を往来しながら人と産土神の魂の交歓が……性別、国、人種、あらゆる境を飛び越え惹かれ合う生命同士の愛が描かれる。憲法14条が掲げている真の平等性、その尊さを、LGBTQの言葉が社会に認知されるずっとずっと前から手塚はペンに込めていたのだ。
幼少期に戦争を体験したがゆえの反戦の意志を明確にもちながら、大衆に時代を超えて受け入れられるエンターテイメント性、多分野にまたがる知識、さらにはマンガ家としてのあくなき向上心を兼ね揃えた人物はそう簡単には現れないだろう。ライフワークとしてこの作品を私たちに遺してくれた手塚治虫に感謝しかない。
25人が変死を遂げているマンモス団地。その犯行はいつも広場のベンチで静かに座っているおじいちゃんの超能力によるものだった。さらなる力を持つ女の子が引っ越してきたことで、超能力者同士の死闘が人知れず繰り広げられることになるーーこんな最高にワクワクする舞台設定とプロット、思いついただけで優勝ものだろう。
団地ってなんか怖い。高度経済成長期に次々と建設された団地住宅は、80年頃には老朽化が始まりつつあり、資本主義社会のしわ寄せか自殺のニュースも絶えなかったという。無地の壁にベランダや窓枠が均等に並び、さらにその住棟がコピー&ペーストしたかのように連なる様は、人間を産業の労働力にしてしまったかのような負のオーラが漂っている。
その“現代のお化け屋敷”ともいえる団地を大友は、大ゴマ、時には見開きいっぱいに圧倒的な緻密な線で描く。そこを老人が夜な夜な壁をすり抜け各家庭を覗き見したり、人を屋上に誘い出しては飛び降りさせたりしている。派手な血しぶきも怪物もいらない、湿度の高い恐怖が画面に横たわっている。
物語の後半では夜の団地を二人が宙を飛び回り過激な超能力バトルを繰り広げる。連なるコンクリ住棟の“圧”のなか、老爺とパジャマ姿の幼女がぽつんと対峙しているその構図がとにかくスタイリッシュだ。
超能力を表現するにも、ビームや呪符といった記号に頼らない。壁が円形に凹んで割れたり、遊具が折れたりと、超能力による物理現象のみが写実的に描かれる。昼間の公園で向かい合った二人が人知れず大きな力がぶつけあっている、静と動、不気味さと熱狂が同居したバトルシーンは、時代にとらわれないかっこよさがあるだろう。
私欲を満たすためだけに並外れた力を使い人々を混沌に陥れる老人を、さらに強い力をもつ次世代が利他的な思いから退場させていく、というストーリーも、「失われた30年」と称されるほど経済の停滞が続く今の日本社会に響くものがある。見たい映画に悩んでいたら迷わずこの一冊を読め、と堂々と差し出せる、全方位へのエンタメが詰まった不朽の名作だ。
昭和ホラーマンガブームの重鎮である日野が一年がかりで描きあげた、汚穢に満ちた39ページ。
奇病を患った青年・蔵六はその無能さも相まって村人から忌み嫌われ、不清潔な森の小屋に一人追いやられる。謎の出来物からは七色のウミが吹き出しはじめ、ウジがわき、小屋いっぱいに立ち込めていた異臭は遠くの村まで届くようになりーーと、蔵六のグロテスクさはページをめくるごとにエスカレートしていく。
人はこんなにむごいことを思いつけるのだろうか。一重にホラーといっても、例えば楳図かずおが描く恐怖は少年少女が乗り越えるためのハードルだったのに対し、本作は読み手に生理的嫌悪感を抱かせる方向へあまりにも振り切っている。加えて、陰やシミを点描でおどろおどろしく表現する日野の不気味な絵柄だ。蔵六に同情したくてもウゲッと顔をしかめてしまう。自分の中に絶対的な悪性があることを時代を超えて気づかせてくれる、普遍的な無秩序がこの作品にはある。
マイノリティへの不平等が改善されているとはいい難い今の日本社会だからこそ、絵を愛する優しい心を持っていた蔵六が村人たちから徹底的に追いやられていく様に恐怖を感じるところもある。集団が狂信的に異分子を排除しようとするのも、今のトランプ新政権と支持者の様相を思い出す。疎外感、孤独感に打ちひしがれている人はみな時代を問わず、蔵六の身に起こるただただ過酷な状況、汚穢に満ちた画面に引き込まれた末に、最後の蔵六の変身に大きなカタルシスを得られるのではないだろうか。
『ねじ式』を読んでいると、悪い夢の中に入り込んでいるような錯覚に陥る。物語としては「ある男が、腕のちぎれた血管を治してくれる医者を求めて漁村をさまよう」だけの話で、大きなドラマもストーリー性もない。荒波の上の真っ赤な空に浮かぶ巨大な飛行機の影、立ち並ぶ目医者の看板、漁村の家屋と家屋の合間を縫うように侵入してくるSL機関車……数コマごとに奇景が現れる上に、登場人物たちが交わす言葉はとても対話が成立しているとは思えない。さらに脈絡なくグロやエロが差し込まれる。不条理で、不気味で、刺激に満ち溢れている。
同時にこの奇譚には戦後日本のノスタルジーとブルースが漂っており、どこか他人のものとは思えぬ寂しさも抱いてしまう。超写実的に描かれる漁村の木造家屋、七輪や機織り機といった民具。本作のモデルは千葉県の外房・太海だそうだが、つげ義春は地方の温泉地や里を旅し、資本主義社会に取り残された人々の営みを愛し、その風土を画面に落とし込んできた作家だった。だからこそ描きうる唯一無二の奇景のコラージュ、戦後の悲哀が織り込まれた”不思議の国のアリス”が『ねじ式』なのだと思う。
タイパ、コスパが重んじられる今の時代を生きていると、これほどまでにナンセンスな展開をこれほどまでの重厚な絵柄で描く作品はもう現れない気がしてくる。『ねじ式』は作者が締切間際にやけくそになって、ラーメン屋の屋根の上でみた夢を描いたものだというが、つげは他にも様々な短編で夢をそのままマンガにしたり、「道理や約束事をあえて無視した作品を描いたりしてきた」と明らかにしている。世の理、常識から徹底的に離れんとする斜に構えた態度、世捨て人としてのスタンスが、この孤高な作品を生んだのも間違いない。